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「民家風デザインの謎」JR日野駅舎 日野市

  • 建物雑想記
  • 2008.02.01
建物雑想記 日野駅舎
日野駅を降りると、「ただいま」と言ってしまいたくなるような懐かしい気持ちになる。そう、日野駅はどこか遠い田舎の駅に来たのではないかと勘違いしてしまうほど、牧歌的な佇まいをしているのだ。

私は子供時代を日野市で過ごしたが、この最寄り駅の日野駅舎が他の中央線沿線の駅舎と趣が違うと思うようになったのは八王子に「Now」、立川駅に「Will」が登場した頃だ。日野駅は外見が古くさくて、ホームも一つしかなく、何かあか抜けない駅だと子供心に思っていた。その後日野駅の周囲はどんどん開発され、街事体が変わっていく中で、日野駅舎だけは昔と変わらぬ姿でそのまま残った。

学生の頃の課題で「身近に存在する歴史的建造物を調べる」というリポートがあった。歴史的建造物なのかどうか正直迷ったが、日頃気になっていた古い建物ということで日野駅舎を調べた。当時のリポートでは駅舎がJR原宿駅を移築してきたので、民家風の外観になったと締めくくっていたと思うが、調査不足もあり信憑性に欠ける内容だった。

日野駅前開発が更に進み、駅舎が昔の面影を残す最後の建物となってしまっていた。この勢いでは将来駅舎も建て変わるかもしれないと不安になり、エールを送る気持ちで駅舎の記事を書いた。この記事は2003年にインターネット上の地域情報サイト「タチカワオンライン」で紹介されている。そして今回再び日野駅と向き合う機会が得られたことは嬉しい限りである。今まで調べた資料を整理しつつ、この建物の民家風デザインの謎を探ってみたいと思う。

【1】 グラビアのコメント
入母屋屋根の民家風駅舎は昭和12年(1937年)に竣工した。竣工当時から現在まで70年を超える歳月が流れているが、駅舎の基本的な外観は変わっていない。駅舎の建設を担当していた東京改良事務所の会報「東改彙報 二-三」(昭和12年)の巻頭グラビアに日野駅舎の竣工写真と共に以下のようなコメントが寄せられている。

『家の形というものは決して偶然や或いは空想から生まれるものではなく、その土地の気温、湿度、緯度、材料、風俗等から、自然にきめられてくるものでありますから、ある国、ある地方の建築様式を見るには、先ずそこの土地の田舎家を調べるのが一番直接的な途なのであります。日野、豊田付近は充分に近代都会的文化の影響を受けている所とは謂え、尚昔ながらの関東平野からの自然発生的風景習俗を保っている所でありまして、従って此所に建てられるべき最もふさわしい家はやはり関東民家の雅味を持ったものと考えられます。日野、豊田駅を田舎家風に設計した所以であります。』

このように日野駅舎は昭和初期の日野の原風景を意識して建てられた。現在ならばシンボル性のある公共的な建物を設計する時には、その地域の歴史的なデザインコードを読みとる作業は一般的に行われることである。しかしながら昭和の初期に既にこのような考え方で設計を進めていたのは驚きである。

【2】 日野駅舎のデザイン
実際の駅舎を見てみよう。平面形はだいたい六間半×四間半の上に上屋が乗っているようなので、標準的な民家の大きさだ。北東の立川寄りの二間半の部分が民家で言えば土間に当たる場所だが、ここでは券売、改札口となっている。民家の平面形がそのままぴったり当てはまるので、近隣の民家を移築したのではないかと思ってしまうほどである。

屋根は入母屋の大屋根の下に巾一間の下屋(土庇)を北東に廻した形になっている。現在ではたい焼き屋とキオスクが下屋の軒下を店舗に使っているので、駅の正面から見ると軒の出の浅い不格好な建物となってしまっているが、本来は風情のある深い軒が印象的な駅舎だったと予想できる。日野駅に行ったら出入り口部分で下屋の天井をちょっと見上げてもらいたい。丸太の美しい軒裏が確認できるだろう。60φ程度の垂木(屋根を支える材料で、勾配方向に架けられた材を指す)の上に小舞(垂木と直角方向に架けられた材料)が乗っており、軽快にまとめられている。このような軒裏を化粧軒裏といい、数寄屋建築などに見られる上級な仕事である。
建物雑想記 丸桁
次に柱と梁に着目したい。下屋では共に丸太が使われているのが分かると思うが、丸太どうしの取り合いがピタッと接しているのが見える。何を当たり前のことを言っているのかと読者の皆さんは思うかもしれないが、このように曲面の取り合いを奇麗に仕上げるのは大変高度な技術で、光り板を使って罫書きながら作業が進められる。熟練した棟梁クラスの大工でなければできない素晴らしい仕事が施してあるのだ。

また上屋を支える柱も見逃さないで見てやってほしい。面皮柱が使われている。これは柱の四隅に丸太の皮が付いている柱のことで、面皮柱は一般的には数寄屋建築でよく見られる柱だが、何故かここに使われているのだ。意図的に面皮柱を使ったのか?それとも、予算がなくて小断面の丸太しか用意できず、結果として面皮になってしまったのか……。いずれにしても駅舎建築には珍しい仕様である。

「東改彙報 一-五」(昭和11年)では次のように述べられている「新本屋は甲州街道に沿って改築し、地方色を加味し柱材の如きも丸身付の角及丸太を用い、屋根には特に膨らみを付け、内外は明るい感じを与えるため壁を白漆喰仕上げとした。」。この文面から判断すると、どうも最初からそのように設計されていたように読み取れる。さらに「屋根の膨らみ」という記述が気になる。昭和26年に撮影された日野駅舎の写真を見てもらいたい。上屋と下屋の屋根の仕上げの違いがはっきりと確認できる。今では上屋と下屋共金属板葺きになっているが、竣工当時はこのように上屋は樹の皮で葺かれていたようである。角の取れた樹の皮葺き独特の優しい曲線が出隅に出ている。実に上品な屋根である、この屋根のプロポーションも田舎屋風よりも数寄屋風と言えるだろう。

【3】 建築家伊藤滋
日野駅舎の写真が東改彙報の巻頭グラビアで取り上げられていたことを前ページでお伝えしたが、この会報のグラビアでは、橋やレール等が取り上げられており、毎回概念的なコメントが述べられている。鉄道に関わるハードな物を造り上げていく人達の心の主張を聞いているようで胸が熱くなるコメントが多い。

さて、ここで確認したいのは、日野駅舎は巻頭グラビアに取り上げる程、東京改良事務所の設計者にとって思い入れのあった駅舎だということである。「東改彙報 二-三」には残念ながら日野駅舎の設計者の名前は明記されていないが、東京改良事務所建築課長で後の日本建築学会長を歴任した伊藤滋によって設計されたとする説が濃厚である。設計者を伊藤滋だと仮定して駅舎のデザインを少し掘り下げてみたい。

伊藤滋(1898年〜1971年)は鉄道省の技術者であったことは既に述べたが、日野駅を設計する前の彼の作品を少し見てみたい。昭和7年(1932年)に国鉄御茶ノ水駅舎、昭和11年(1934年)に交通博物館(注1)を担当している。いずれも後に改修されている建物ではあるが、平成の現在でも見ることのできる彼の佳作である。この二つの建物に共通する点は、分離派(注2)の影響を受けて交通建築の持つ機能性を平面的にも意匠的にもうまくまとめて設計していることである。もちろん鉄・コンクリート・ガラスという近代建築材料を駆使した建物だ。特に御茶ノ水駅舎は駅舎建築のその後の指標となった建築と言われている。御茶ノ水駅舎を造るにあたって次のように伊藤滋は述べている。『停車場建築は内部に停滞居住するものではなく、むしろ道路の一部であるという所にその特徴がある。……単純と秩序と迅速の観念の上に設計されるべきである。』(鉄道路線変遷史探訪)。
建物雑想記 JRお茶の水駅
御茶ノ水駅が竣工してから日野駅ができるまでにわずか5年、同じ用途の建物を設計するのに考え方がかなり変化しているのが読みとれる。御茶ノ水周辺にも自然発生的風景習俗があったはずだし、日野駅にも駅としての機能を持たせないといけなかったはずである。モダニズム建築を謳歌していた時期に何故、民家風駅舎となったのか?謎が深まるばかりだが、この五年間という歳月の中で彼の設計思想を変える何かがあったと思われる。

【4】 日本見聞録『ニッポン』
この時期にドイツから来日した一人の建築家がいる。ブルーノ・タウト(1880年〜1938年)だ。ブルーノ・タウトは桂離宮の中に、つまり日本の古典的建築の中に材料の簡素、明確、清純といったモダンデザインの美学が存在していることを外国人の目で、初めて論じたことで有名である。彼の著した日本見聞録『ニッポン』の中では桂離宮の素晴らしさを賛美すると共に、表面だけをなぞったような日本の西欧様式建築を酷評している。しかしながら純粋に機能性を追求した日本の近代建築には、エールを送っているのである。タウトの認めた日本の近代建築の一つとして名前が挙がるのが、伊藤滋設計の御茶ノ水駅舎なのである(『ニッポン』平井均訳 1934年、167ページのグラビアに掲載されている)。伊藤滋とタウトが、面識があったかどうかは判らないが『ニッポン』を通して何らかの接点があったとするのは無理な推測でもないだろう。

話を日野駅舎に戻そう。伊藤滋が駅舎をモダニズム建築にしなかったのは、前述の彼の持論を組み立てるに当たって、少なからずタウトの影響があったのではないかと僕は思っている。つまり日野周辺地域での古典建築美は民家にあると捉え、駅舎の設計に応用した。駅舎の上屋の屋根と構造を支える面皮柱については、民家風デザインを洗練していく仮定で、到達した領域が近代数寄屋建築だったのではないだろうか。

【5】 物語かもしれないが……
この記事は私の日野駅に関する物語だと言っても過言ではないかもしれない。しかしながら、留まっていることを許されない戦後の東京都下の駅前にあって、日野駅舎が竣工当時とほとんど変わらぬ姿で現在も建っていることは奇跡に近いと私は思うのである。設計した人や経緯が如何にあろうとも、現在建っている駅舎は日本の伝統の技が駆使された素晴らしい近代建築であり、日野市に現存する数少ない現役の産業遺産と言えるだろう。この記事を通して日野駅を利用する人々が駅舎のことをもっと好きになってくれたら幸いである。

最後に日野駅舎の変遷を簡単にまとめておきたい。
建物雑想記 日野駅舎の変遷
・明治23年(1890年)
駅開設、現在の位置よりも豊田側にあった。
・大正10年(1921年)
原宿駅の古材を使って駅舎を改修。
・昭和12年(1937年)
多摩御陵に至る甲州街道の整備と、線路の複線化に伴い駅を現在の位置に移転。
後に立川よりのホームを増築、現在に至る。

■参考文献
『鉄道路線変遷史探訪』1982年 守田久盛 他 吉井書店
『ニッポン』ブルーノ・タウト 1934年 平居均訳 明治書房
『日野駅110周年記念によせて』2000年 田中紀子 日野史談会50号

注1)万世橋の旧交通博物館。2007年春に閉鎖され博物館の機能は大宮に移転、現在は建物だけが辛うじて残っている。注2)過去の建築圏より分離し、新建築圏を創造するという動き。1920年に堀口捨巳らによって始まった。ドイツのセセッションの影響を受けている。