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「小高邸のデザインを探る」擬洋風建築 青梅市 

  • 建物雑想記
  • 2004.11.01
建物雑想記:小高邸
秋雨の滴るなか御嶽駅発のバスに揺られて目当ての洋館へと向かった。終点で下車してさらに登山道を進むこと数分、霧のかかった山肌に一風変わったファサード(正面外観)を持つ建物が見え隠れしていた。ここが小高邸に違いない。深い山、肌寒い霧雨、公共交通機関の終着点、この上ない環境が、建物をよりエキゾチックな雰囲気に包んでいた。

「擬洋風建築」という言葉をご存知だろうか、小高邸のように洋と和が混在した異国情緒漂う明治時代の建物を、特別にこのように呼んでいる。今では珍しいこのデザインを今回はちょっと掘り下げてみたい。

「洋館」は開国と同時に日本に入ってきた新しい建築のスタイル(様式)で、それまでの和式ではない建物の総称でもある。「洋館」は大きく分けて2つの流れに分けることができる。外国人技師や海外で西洋建築を学んできた日本の建築家が建てたいわゆる西洋の様式建築と、それらの建物を見てその様式を模した建物である。前者は公共建築や政治的な建物が多いのに対し、後者は洋館に対する憧れから建てられた建築で、様式建築にはない庶民的な愛嬌がある。後者の中でも特に棟梁が当時の日本の建築技術を駆使して、見よう見まねで建てた明治時代の洋館のことが「擬洋風建築」と言われている。

小高邸外観

「擬洋風建築」もその表現方法からいくつかに分けられ、小高邸の外観の特徴を整理して名前を付けるとすれば「ベランダコロニアル風漆喰系擬洋風建築」のようになるだろう。いきなり難解な言葉の羅列で恐縮だが、デザインの流れを紐解きながら説明するとしよう。

まずは「コロニアル」だが、これは大航海時代以降にヨーロッパ諸国が進出して行った先で生まれた植民地建築のことをコロニアル建築ということから来ている。その中でもインドから東南アジア・中国を経て日本にたどり着く間に建物の周囲にベランダが付属するのがベランダコロニアル様式だ。つまり、様式建築と言っても本家大本の西洋の様式とは一線を画すスタイルとなっている。

小高邸を見てみよう。本来のベランダコロニアル様式ならば、1階と2階にベランダが廻り、さらにベランダは柱で支えられるのに対して、ここでは2階部分にしかベランダがついていない。しかも柱が存在しないのである。「〜風」とした所以はここにある。柱を抜いたおかげで2階の屋根とベランダが共に張り出した軽やかなファサードになっている。では何故宙に浮かせたのだろうか……、実は日本の大工技術を持ってすればそんなに難しい技でもなく、「出桁造り」という2階を跳ね出して造る技法を応用すれば可能なのである。日本式に造ったら柱がいらなかったと言っても過言ではないだろう。擬洋風建築ならではの自由な発想である。

次は「漆喰系」。これは本来の西洋式建築では石を積み上げて外壁を造るのに対し、軸組を木造として外見上だけ漆喰で石張り風に見せた建物のことである。当時の左官職人は伊豆の長八でも知られるように、漆喰で絵を描くほど多種多様な仕事が可能だったので、石造風に見せることは難ないことであった。小高邸では外壁の腰窓の下と壁の出隅の部分に石積み風のパターンが漆喰で形取られている。ちなみにこのようなデザインは骨組みが木造だからできる手法で、実際の組積造建築ではなかなかこうはならない。それでもそれらしく見えるところが擬洋風建築たるところである。最近の住宅でも石張り風の建物をよく見かける。「サイディング系」とでも言えようか、当時と発想は同じあってもこちらはウソっぽく見えるから不思議だ。

擬洋風建築は文字通り「如何に模すか」が重要で、お手本となる様式建築を真似るだけの技術を持っていなくてはならず、宮大工のような社寺を得意とする職人が手がけた例が多かったようだ。擬洋風建築は腕に自信のある職人が試行錯誤して造り上げた傑作なのである。

小高家の外観は一見洋風だが、屋根は軒の出を深く取り、プロポーション的には和風となっている。また軒裏の垂木を社寺建築に用いられる扇型(扇垂木と言う)にしており、これは難易度の高い造り方で平行垂木よりも格上の技とされている。小高家が御岳神社の神主の家系で、神社を手がけた宮大工が建てたと考えれば納得がいく。

小高邸扇垂木

明治という時代性、宮大工の技術、絹の道によって結ばれた横浜の文明開化との接点。これらが上手く重なり合って小高邸の外観が生まれたと言えよう。大西洋を超えて伝わったコロニアル様式の影響がこの御岳まで及んでいるとは、正に建築ロマンの凝縮された建物である。