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「養蚕六間型民家 のらや 国分寺店」/国分寺市

  • 建物雑想記
  • 2022.05.28
養蚕は、江戸末期から多摩地域の近代を支えた主要な産業の一つで、農家の貴重な現金収入を担っていた。現在では養蚕を行っている農家は数える程しかないが、幕末から戦前までの間は、今日では想像もできない程、蚕との濃密な関係が存在していたのである。

蚕の飼育は室内で行う必要があるので、住居の一部を飼育室に代用する農家が大半であった。そのため、養蚕期間は蚕に合わせて住まい方も変化し、飼育頭数が増えると、間取りも飼育しやすい形へと改良が行われた(下図参照)。四間型の間取りに二間増やしたのが養蚕六間型で、住居の中に蚕の飼育室を最大限確保した間取りである。高さ方向の改良も並行してあり、天井裏を二層に分けて飼育室とし、小屋裏を合わせた三層構造が主屋内養蚕の最終形といえるだろう。

■納屋のようなお屋敷


入口側の外観 下見板にかけてある梯子が納屋的な印象を醸し出している



五日市街道沿いに古民家でうどんを食べることができるお店があると聞き訪れると、木造二階建ての大きなお屋敷があった。瓦葺の入母屋屋根に南京下見板張りが印象的な外観で、古民家というよりも上品な納屋のような建物で、とにかく規模が大きい。店内も古民家に見られる天井が高い土間や、曲がりくねった梁は見当たらず、落ち着いた和風の内装となっていた。よく見ると、黒光りするケヤキの大黒柱や差し鴨居(引戸用の溝の突いた梁)を確認することができ、客室として細かく仕切られいるものの、いわゆる田の字型の民家の間取りをなぞることができる。

この古民家は平成18年頃まで住まいとして使われ、その後、平成20年に「のらや国分寺店」に改装された。「のらや」は三世代の家族が一緒に食事を楽しめるうどん店で、国分寺店では古民家の風情はもちろんのこと、武蔵野の農家で見られた屋敷林や竹林の残る広い庭も魅力となっている。座敷から緑を楽しめる落ち着いた食事処として親しまれている。

報告書等を調べると「国分寺市の民家」(平成8年、国分寺市教育委員会市史編さん室)にこの建物と思われる古民家が掲載されていた。国分寺市教育委員会に問い合わせたところ、報告書の野中新田六左衛門組の川窪家住宅が、「のらや」の建物であることが確認できた。

「国分寺市の民家」には明治40年頃に建築された大規模な養蚕六間型の民家とあり、大黒柱が通常の民家では土間境に配置されるところが部屋と部屋の間にあり、特筆すべき項目として書かれている。報告書の間取り図と現在の店舗を照らし合わせてみると、厨房以外は大きく変わっていないこともわかった。


株式会社のらやの協力で古民家の所有者の川窪嘉久治氏に直接お話を伺うことができた。この建物は昭和40年頃に大規模な改修を行い、その時に草葺屋根を瓦屋根に葺き替えている。草葺屋根時代の写真がお店の玄関土間にあり、現在よりも屋根が大きい、正に古民家のイメージであったことがわかる。写真には古民家が慶応年間に建てられたと説明があり、報告書の建築年代よりも40年も遡ることになる。

■慶応年間の民家
川窪家住宅は間口(建物の長手方向)11間、奥行き5間、2階建ての大規模な民家である。小屋裏で架構を見る限りは、増築しているとは考えにくく、建築当初から現在の規模で建ったと推測できる。

中央の客席 テーブルの上をダイナミックに差し鴨居がまたぐ 釣り棚は昔の神棚



この規模の民家が幕末に建てられた事例を調べてみると、「砂川の民家」(昭和58年、立川市教育委員会)に江戸末期に建てられたとされる豊泉敬一家住宅が四間型の間取りで、間口10間半、奥行き5間半とほぼ同じ平面規模である。天井裏に飼育室の2階を設けた事例としては、同文献の小林久治家住宅が明治5年から6年頃に建てられた四間型で、間口10間、奥行き5間半の平面規模に、建築当初から養蚕のための2階があり、幕末期の開放的四間型平面の典型と解説されている。

一方、江戸時代には民家の規模の規制があり、梁間(小屋組を構成する上屋梁の長さ)を3間までとする禁令があった。川窪家住宅の梁間は4間と、規制を超えていたが、「砂川の民家」では江戸末期の建物でも梁間が3間半や4間の事例があり、幕府の禁令も江戸末期になると厳しくなかったと推測できる。これらの事例から川窪家住宅の規模の民家が慶応年間に建っていても珍しいことではないことがわかる。

次に間取りを見てみてたい。江戸末期の一般的な農家は四間型(いわゆる田の字型の間取り)だったので、川窪家住宅も当初は四間型で建てられたと考えられる。

農家で養蚕が広まると、間取りの中央の通称ザシキと呼ばれる部屋が蚕室となり、養蚕がより盛んになると、ダイドコロ(土間)に床を張り、飼育面積を増やす改修が行われた。「南多摩文化財総合調査報告 第三分冊」(昭和37年、東京都教育委員会)では日野町東光寺の立川松雄家住宅で土間に付属した馬屋をダイドコロに改造し、元のダイドコロを養蚕用の居室に造り替えることで、四間型から養蚕六間型に変遷した事例が報告されている。

お座敷は23帖の大部屋に変更 畳一列が通路に削られているが、全く違和感がない



川窪家住宅では馬屋の存在は明らかになっていないが、縁側の柱に貫の跡があることから、土間を改変した可能性がある。「国分寺市の民家」で指摘のある大黒柱の位置のズレも建築当初を四間型民家とすれば、定石通りの大黒柱の配置となる。川窪家住宅でも大黒柱の東側のダイドコロ(土間)に床が張られ、居室化されたことで、四間型から養蚕六間型に変遷したと考えられる。

■引き継がれる民家建築
川窪家住宅では生活の変化に合わせて改修を繰り返しているが、主要な柱や梁は建築当初から変わっていない。四間型から養蚕六間型に改修し、養蚕が終了した戦後は六間型の住居として使われ、昭和40年代に中廊下型の住宅へと変遷している。中廊下の出現で隣り合う部屋を通路として使う必要がなくなり、プライバシーが確保された近代的な間取りに進化している。平成20年の「のらや」への改修では中廊下を撤去し、飲食店用に木製のパーティションを作り直している。奥座敷を切り取るような思い切った仕切り直しもあるが、古民家の魅力を活かした変更となっている。

このように時代のニーズに合わせた改変が可能だったのは、堅牢な架構と改変に耐え得る広く単純な間取りが古民家に備わっていたからだろう。近年、建物の構造躯体(スケルトン)と内装や設備 (インフィル)を分けて考えることで、建物の寿命を伸ばす手法(スケルトン・インフィル)が注目されている。古民家ではそのような思想が最初から織り込まれていたと言える。古民家は木と土を基本とした自然由来の建物として知られるが、骨格もサスティナブルな建築だったのである。

食事と庭を楽しんだあとは、玄関土間にある草葺の写真をご覧いただきたい。屋根の形や内外装が変わっても民家が引き継がれていることを実感できるだろう。