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「公共集合住宅からマンションへ/長谷工マンションミュージアム」多摩市

  • 建物雑想記
  • 2021.08.22
■「団地」と「集合住宅」
前号で今後「団地」について紹介したい旨を書いたが、「団地」と「集合住宅」の区別が曖昧だったので、今号は改めて基本的な用語の説明から始めたいと思う。
「団地」を建築大辞典を調べると、集団住宅地の略とあり、一定の計画の下に一団の住宅を造成、集団的に住宅を建設し定住させたもので、独立住宅や集合住宅で構成されるとのことだ。従って前号の多摩平団地は「団地」の中でも集合住宅のタイプであったことがわる。一方「集合住宅」は住棟形式の一つで、一般に住戸ごと完全に独立している複数の住戸が集合して、一棟を構成する住宅のことで、より広義の意味を持つ。
「公団住宅」は昭和30年に設立された日本住宅公団により、高度経済成長期に不足した中堅勤労者向けの都市型住宅として建設された。入居には家賃の4倍から6倍の収入が必要などの基準収入額の設定があり、誰もが応募できる物件ではなかった。そのため主な入居者は会社員等の若い核家族となったが、都心に通勤する会社員の増加に対して住宅が不足していたため、応募者が殺到した(日本住宅公団東京支社の新築賃貸住宅の入居倍率は、昭和38年のピーク時は50倍を超える程であった)。
日本住宅公団が設立されてから解散するまでの四半世紀に用意された公共住宅(日本住宅公団、都営住宅、東京都住宅供給公社の合計)は約47万戸であった。しかしながら、この間に東京都の人口は800万人から1150万人を超える数となり、350万人も増加したのである。到底公的な住宅だけではまかなうことはできず、大半は民間住戸で供給されたのである。民間で建設された住宅は、戸建住宅の持ち家と賃貸住宅に二分されたが、多くのはいわゆる安普請の木賃アパートであった。下宿屋タイプから、家族向けのタイプまで幅広く供給されたものの、概して住宅の性能や環境は良くなかった。

■「マンション」の出現
ここでまた用語の確認をしたい。日本で使われている「マンション」は、戦後に登場した新しい住まい形態の和製英語である。一般的に非木造(多くは鉄筋コンクリート造また鉄骨鉄筋コンクリート造)の集合住宅で、土地の高度利用の必要性から中高層建築が多く、個々の住戸が分譲方式によって供給された持ち家の俗称のことをいう。
昭和37年に区分所有法が制定され、公共集合住宅以外の選択肢として需要が高まり、マンションが多く建てられるようになった。東京都の令和2年度の新築住宅戸数ではマンションが3万2895戸と全体の約25%を占めている。分譲戸建住宅は1万7476戸と13%となり、分譲住宅ではすでに戸建よりもマンションが主流になっていることがわかる。また当初はマンションが戸建分譲住宅よりも価格が低かったが、平成25年頃から価格の逆転現象が起きている。

■長谷工マンションミュージアム
多摩センター駅からほど近い丘陵地に長谷工マンションミュージアムがある。長谷工グループの培ってきたマンションの設計や施工の技術展示に止まらず、世界や日本の集合住宅の歴史から、昔と今のマンションの違いを実物で体感できる場所で、「見て、触れて、感じて、学べる」施設となっている。UR都市機構の集合住宅歴史館が昭和初期から30年代に建てられた集合住宅を移築展示しているのに対し、その後の昭和400代以降のマンションを実物展示していて、ちょうどバトンを引き継いでいるような感じだ。二つの施設を一連で見学すると、集合住宅の歴史を網羅できる理想のコースとなるだろう。
長谷工グループでは昭和43年からマンション事業に進出し、当時富裕層向けの高級住宅として分譲されていたマンションに対し、リーズナブルで良質なマンションの開発に力を注いた。そして昭和48年にマンションの商品化、安全性、永住性、コストダウンの四つの考え方を基本とした一般市民層向けマンションの新工法として「コンバス」が誕生する。設計には間取りの標準化、共用部の片廊下タイプ、標準化されたユニットの採用で、工期の短縮とコストダウンを実現した。コンバスシリーズは時代のニーズを取り込み、昭和50年から昭和60年の10年間で、首都圏だけで約7万戸も建設されたのである。
暮らしと住居の変遷コーナーでは、昭和51年のコンバスシリーズ「ニューライフ」と最新の間取り「Be-Next」の実物展示を体感できる。「ニューライフ」は住戸を高密度に配置するために考案された間取りの定型で「集合住宅型」と呼ばれることもある。間口が狭く(細長)、個室を窓側に配置し、中間部に台所、浴室、便所等の水まわりを配置した。換気や給排水設備の進歩により水まわりを窓のない中央部に配置することが可能となったが、この間取りではダイニングも中間部に配置することになり、隣接する襖を開けても日中でも電気をつけなくてはならない難点があった。既にシステムキッチンとユニットバスが装備されいて、基本的な構成はその後のマンションにも引き継がれている。
次世代マンション「Be-Next」のモデルと比較できるのも面白い。「Be-Next」では将来変えることのできない基本性能の充実(構造、設備)、基本性能と関わらない部分の可変性、そして時代にマッチした住宅性能の確保の三つが基本コンセプトとなっている。


■「量」より「質」の時代
集合住宅の歴史が近世の木造賃貸長屋から始まったことは前号でも述べたが、長屋のように寝食が一緒になった間取りでは、衛生面や私生活の改善が望まれた。また住宅密集地における耐火性の低さも問題になっていた。その後、和と洋の混在した生活の合理化(主に洋風化)が住宅改善運動として進められた。戦後は住生活でも民主的な家庭生活を求める立場から、日本の住宅に残っていた玄関や床の間等の封建的間取り(格式のある装飾要素)を否定する動きがおこった。一方、戦後の深刻な住宅不足の中では、寝食分離の実現、個室の確保と住宅設備の装備を優先せざるを得ず、自ずと住まいの装飾的な部分は省かれていった。
住宅の戸数がある程度満たされるようになると、供給側のコンセンプトも「量」から「質」へ変化した。「質」=「性能の向上」が基本的な考えとなり、より耐久性や設備の充実を強化する方向となったのである。この間に生活の洋風化はさらに加速し、「和」の要素として唯一残っていた畳敷きの「和室」も住戸から消えることとなった。この状況はマンションに限らず、戸建分譲住宅でも同じような傾向にあった。


■「質」の広がり、そして住まいの持続性へ
日本の住まいは、木と土、紙をベースに造られ、四季を感じる工夫が随所にあったが、自然由来の素材は湿度や温度によって伸び縮みし、腐朽や害虫の被害にあうことから、扱いに手間がかかった。初期のマンションでも内装は無垢の木が使われていたが、人件費等の高騰から工業製品に置き換わっていった。また生活インフラの高度化の中で、素材の不均一さや動き等、意図しない些細な不具合に対する不寛容が進み、造り手側だけでなく、住まい手からも自然由来の素材は敬遠されることになったのである。
日本建築史家の太田博太郎は著書「床の間」(岩波新書/昭和53年)で家族本位の住まいの中にも生活の潤いとしての床の間の有用性を述べ、『部屋が洋風となれば、床の間の形も当然変ってくる。しかし、絵画や工芸品を鑑賞し、花を賞するという床の間本来の目的が、住宅にとって必要である以上、形が変わっても床の間は設けられるであろう』と、新しい床の間への期待で本を締めくくっている。「性能の向上」の次は、戦後置き去りにされた日本的な要素を再評価する流れになると嬉しい。

マンションの歴史を理解し、現在の状況を知った後は寿命のことが気になる(筆者も築40年のマンションに住んでいるので……)。そのような心配事にも、長谷工マンションミュージアムでは、再生と長寿命化のコーナーで事例を踏まえた解説があるのでありがたい。見学後、これからのマンションについて長谷工マンションミュージアムの江口均館長からお話を伺うことができた。「今後は建て替えではなく、修繕を繰り返しながら住み継ぐことが増えるであろう」という江口均館長の言葉が心に響いた。

建物を修繕しながら使い続けることは、昔は普通に行われていた行為だった。茅葺き屋根の葺き替え等は古民家の修繕工事としてよく知られている。住まいが商品化されたことで、建物のことを自分事として向き合えなくなっていたが、その状況が変わりつつある。マンションも維持管理しながら資産として育てていく時代になったのだ。そのうち多摩地域のマンションも歴史的建造物と呼ばれる日がくるであろう。その時が待ち遠しい

■参考文献
「長谷工グループ80年史」2017年 ※非公開資料を拝見さていただきました。この場を借りてお礼申し上げます。
「日本住宅公団史」日本住宅公団 昭和56年
「すまいの考今学」西山夘三 彰国社 1989年
「住まいを読む」鈴木成文 建築資料研究社 1999年