新着情報

「尾根に建つ木造校舎/檜原村旧藤倉小学校」 檜原村

  • 建物雑想記
  • 2020.07.01

2020年初夏の旧藤倉小学校と立地



2019年の夏、「檜原村の旧木造校舎の件で…」と電話があった。旧藤倉小学校を活動の拠点にしている特定非営利活動法人さとやま学校・東京からで、老朽化した木造校舎をなんとかできないかという相談であった。木造校舎と言えば10年以上も前になるが、奥多摩町と檜原村に現存する木造校舎を追ってレトロカメラマンこと伊藤龍也氏と訪ねたことがあった(本誌131号132号で紹介)。旧藤倉小学校はその中でも崖の上という特殊な立地の建物で、投入堂のような外観から、気になっていた建物である。残っていたことを知り、嬉しい限りであった。

さとやま学校・東京は檜原村藤倉地区の環境保全と活性化支援を目的としたNPOで、在来種などの作物栽培による耕作放棄地の再生、収穫物を使った伝統料理の調査や料理会等を実施している。しかしながら地区では高齢化が進み、民家の空き家率も高いことが大きな問題となっていることから、旧校舎を簡易宿泊所とNPOの事務所に整備し、雇用を生み出す事業を担うと共に、地域環境や伝統的な景観が保たれた持続可能な観光地へと展開することを目指している。

旧藤倉小学校は檜原村の中でも北西の再奥に位置し、正に東京の秘境と呼べる場所だ。このような山奥に宿泊施設を整備しても人が来れるのだろうかと心配になったが、旧藤倉小学校は武蔵五日市駅から、西東京バスで約50分、終点の藤倉のバス停から徒歩10分と、公共交通機関で行くことができるのである。思いの外便利なことに驚いたが、バスがこの山奥まで来ていることも、小学校と強い繋がりがあった。

在りし日の校庭(昭和50年代後半)、撮影:岩月一敏

在りし日の校庭(昭和50年代後半)、撮影:岩月一敏


旧藤倉小学校の歴史は明治7(1874)年まで遡ることができ、檜原小学校第六分校として集落の寒澤寺の建物を使い開校された。その後、北檜原尋常小学校と改称され、明治34(1901)年に寒澤寺の敷地内に新校舎を建築。昭和22(1947)年に北檜原小学校第二分校と校名が変更され、昭和29九(1954)年に校舎の老朽化と狭さから、現在の校舎に建て替えられた。分校は昭和41(1966)年に檜原村立藤倉小学校に昇格された。しかしながら世の中が高度経済成長期に入ると、檜原村の主要な産業であった林業や炭焼き、養蚕は生産が減少の一途をたどり、若者が村外へ流出することとなる。その結果、村内の出生率は低下し、児童数の減少へと続いた。村はこのような状況から、昭和55(1980)年に村立小・中学校統合基本計画を定め、昭和61(1986)年に檜原小学校に村内の小学校を統合することとした。旧藤倉小学校も分校から小学校への昇格当時は84名いた児童が、昭和50年代にはその四分の一に減少し、昭和61年に最後の卒業生3名を送り出して閉校となった。


統合先の檜原小学校は藤倉地区から車で20分もかかる距離にあり、旧藤倉小学校の児童はバス通学となった。現在の藤倉バス停は統合時に整備された路線で、それまでは藤倉地区の手前の小岩地区までしかバスは運行していなかったのである。小岩から藤倉の路線は深い谷合の道のため、小岩が長らく終点であったことも理解できる。スクールバスを運行することも検討されたが、将来を見据えてバス路線を延長させたことで、現在この地までバスで来ることができるのである。




小学校時代の中廊下(昭和50年代後半)、撮影:岩月一敏

小学校時代の中廊下(昭和50年代後半)、撮影:岩月一敏


現在の校舎は、戦後に建築された建物だが、藤倉地区の共有林を売却して資金をつくり、大部分を学区民の寄付や労務奉仕によって建てられた。国・都・村からの補助金は総工費の四分の一に過ぎなかったと記録が残っている(「藤倉小学校閉校記念誌」)。公共性のある建設工事をこのような寄付や労働奉仕による「普請」として建設する方法は、村内の他の校舎でも見られ、「郷土史檜原村」には学校は地域のシンボル的な存在で、建設・改修・維持に学区民の資金が使われてきたことから、地域の財産であり、住民の心のよりどころであったと綴られている。




授業の様子(昭和50年代後半)、撮影:岩月一敏

授業の様子(昭和50年代後半)、撮影:岩月一敏


校舎を見ると、柱にはクリ材が多用されており、地場の木材が惜しみなく使われていることがわかる。建て方は伝統的な手法を基本に、軸組に筋違いやトラス(洋式の小屋組)を用いた近代的な構造が取り入れられている。東京市小学校の木造校舎の規格に準じた造りとなっており、外観も洋風建築であることから、設計には都市部の建築技術者が携わっていたと推測できる。




倉掛方面からの小学校の眺め、学校への自動車道が着工する前の様子(昭和50年代後半)、撮影:岩月一敏

倉掛方面からの小学校の眺め、学校への自動車道が着工する前の様子(昭和50年代後半)、撮影:岩月一敏


藤倉地区に電気が通るのは昭和34(1959)年まで待たなくてはならず、竣工して間もない頃は自然光だけで授業が行われていた。そのため旧藤倉小学校には教室だけでなく、廊下にも高窓を設け、自然光を取り入れる工夫が行われている。校舎を東尾根の先端に建てたのも採光の優位性を考慮した配置と想像できる。児童に対して、できる限りの教育の場を提供したいという、地域の想いの詰まった建物であることがわかる。現在では、道路が北秋川沿いに走っていることから、川を基準に物事を考えがちだが、檜原村の交通は元来尾根の道が主要だったため、民家も尾根伝いに建てられていた。小学校の立地もそのような地域の慣習に習った配置と考えられる。


旧藤倉小学校の校舎は戦前の木造校舎の典型例と言え、東京都に現存する数少ない木造校舎の一つである。また、建物の建つ立地や、地域の人たちが協働で公共性のある建物を造っていた時代の産物として、学校建築遺産としての価値が高い。




保存活用計画で方向付けられた建物保護の方針

保存活用計画で方向付けられた建物保護の方針


現在この木造校舎を簡易宿泊所と事務所の複合施設とすべく、プロジェクトが進行中である。校舎の建築当初は地元の資金と労力を出し合って建てた木造校舎であったが、今回はさとやま学校・東京が事業主となり、農林水産省の農山漁村振興交付金を得て、村内外の応援を得ながら校舎を再生することとなった。木造校舎の歴史的な価値を継承しながら、宿泊所+事務所として魅力のある建物にするために、保存活用計画を策定し、改修計画が進められている。木造校舎で尾根からの絶景を満喫し、地域文化の魅力を体験できる場としてリニューアルされる予定なので、ご期待いただきたい。


【参考文献】

・『檜原村史』昭和56年
・『郷土史檜原村』平成8年
・『檜原村立小学校開校十周年記念誌』昭和52年