新着情報

「村山織物共同組合事務所」 武蔵村山市

  • 建物雑想記
  • 2019.05.15

村山織物組合事務所村山織物同業組合は村山大島紬の品質の管理や販路の拡大のために、八王子織物同業組合から独立し、昭和4年に設立された。この事務所も同業組合の設立に合わせて、昭和3年に建てられた。昭和25年に村山織物協同組合に改称され、現在でも織物協同組合事務所として使用されている。


 組合事務所は木造2階建ての洋風建築で、間口六間(約11m)、奥行き11間半(約21m)の総2階建てで、延べ床面積が約460平米の建物である。この建物が洋風と言えるポイントは、外壁の「南京下見板張り」、「左右対称な正面外観」、そしてその中央に設けられた「車寄せ」と言えるだろう。


「南京下見板張り」の外壁、日本家屋でも横板張の下見板壁はよく見られるが、横板を押縁で縦に押さえるのが一般的である。押縁がなく、ペンキ塗りの下見板はコロニアル建築に見られる特徴だ。次に「左右対称の正面」だが、日本では神社仏閣以外で採用されることは少なく、やはり洋風のデザインと言える。窓はアルミサッシに改修されているが、建築当初の写真(※①巻頭)を見ると、当時から引き違いの窓の上に欄間窓があったのがわかる。車寄せの右側に木製の窓が残っているので、こちらがオリジナルと考えられる。


「車寄せ」には現在は切妻屋根が乗っているが、建築当初の写真では斜めの屋根が見えないので、もともと陸屋根(鉄筋コンクリート造建築などに見られる平らな屋根で、木造の洋風建築ではバルコニーや車寄せによく使われた)で、パラペット(陸屋根の外壁廻りに立ち上げられた低い壁)があった。しかしながら、雨の多い日本では、雨が漏ることが多かったようで、ここもその例外ではなかったようだ。「車寄せ」のパラペットのデザインはこの建物の最も特徴的な部分で、三角の尖り飾りは大屋根の換気屋根と呼応して、建物の中心性を強調している。
織物組合1-HP
間取りは、階段室と一体となったエントランホールから中廊下が続き、その両側に事務室と会議室、そして廊下の突き当たりが村山大島紬の資料展示室となっている。内装は壁と天井が漆喰塗りの簡素なつくりで、資料展示室の柱や梁には幾何学的な装飾が施されており、他の部屋よりも格式の高い場所だったようだ。階段はエントランスホールと中廊下の奥に2ヶ所あり、共に玄関土間から直接上がれるようになっていた。2階はワンルームの大広間(138畳の部屋で、天井高は3.58mもある)となっている。この広さにもかかわらず室内に柱が一本もないことが2階の最大の特徴と言える。無柱空間を実現するためにトラス構造が用いられている(※②)。トラス構造は三角形を組むことで、細い材料でも大空間を可能にした合理的な小屋組で、明治以降に日本に導入され、酒蔵や工場等、広さを必要とする建物に多用された。6間(11m弱)間口のトラスは当時としても規模が大きく、同業組合がこの空間に託した意気込みが伝わってくる。




2階は130畳もある大空間、ゆったりとした階段が南北にそれぞれ設けられている。建築当初は階段も含めて土足だったようだ。

2階は130畳もある大空間、ゆったりとした階段が南北にそれぞれ設けられている。建築当初は階段も含めて土足だったようだ。


ここで、織物組同業合事務所がなぜ洋風建築で建てられたのか…そんな疑問が湧いてきた。村山大島紬は絹織物なので、販売促進や展示用の空間であれば、和風旅館の大宴会場ような造りが合う気がするのだ。同時代の多摩地域の織物同業組合事務所を調べてみると、八王子織物同業組合は大正9年に完成した鉄筋コンクリート造3階建ての上質な洋風建築であった(※①233ページに写真)。所沢織物同業組合も大正11年建築の洋風建築だった(所沢市ホームページに画像有、鉄筋コンクリート造を思われたが、読者からの情報提供で木造と判明※④94ページ)。飯能の武蔵絹織物同業組合も大正11年の建物で、村山と同様の木造2階建ての南京下見板張り洋風建築である(飯能の織物協同組合事務所は平成29年に国の登録有形文化財に登録され、現在は地元の不動産会社が管理し、保全している)。


構造や規模が変わっても、織物同業組合事務所は官庁建築に通じる洋風の意匠で建てられていたようだ。織物同業組合の主な事業内容については冒頭で述べたが、組合事務所は織物の検品と織物税の納税場所としての機能も担っていたのである。国の納税施設としての側面が、左右対称系の権威的な意匠に表現されていたと考えることができそうだ。


また多摩の近代は織物業が牽引し、養蚕、製糸、織機の合理化そのものが、多摩の近代化であったと言っても過言ではない。洋服が一般的となった現在では、織物は伝統的で非日常的な衣服だが、当時は和服が普段着の時代なので、その近代化を担う組合事務所も「洋風建築」でなくてはならなかったのだろう。


村山大島紬は綿織物の村山紺絣と絹織物の砂川太織の技術を併せて開発された大島紬として、高い評価を得た。量産が試みられたものの、生糸を用いた先染めの絣のため、織機の合理化には馴染まなかった。多くの後染めの絹織物が力織機化され、その後はレーヨンや合成繊維の導入まで行われるようになったが、村山大島紬は手織機を基本とした伝統的な生産方法が続いた。その結果、昭和43年に東京都指定技術工芸品に指定されている。普段着の絹織物として重宝された村山大島紬も、私達の生活自体が洋風化された高度経済成長期以降は、地域の伝統工芸品として守られ、受け継がれている。


協同組合事務所も平成13年に武蔵村山市の有形文化財に指定された。多摩地域の近代産業を担った他の織物同業組合の事務所建築は建て替わるか、用途を変えて保存されている。その中で当時の建物を織物協同組合事務所が現在も使い続けていることは、他に例を見ない貴重な環境なのである。


【参考文献】
※①武蔵村山市史 通史編 下巻 平成15年
※②東京都近代和風建築総合調査報告書 平成21年
※③村山織物史 村山織物協同組合 昭和57年
※④所沢織物誌 所沢織物同業組合 昭和3年)