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「錦町の洋館付住宅」 立川市

  • 建物雑想記
  • 2019.02.15
立川錦町の洋館付住宅
初めてその住宅・嶋田邸を知ったのは、平成23年(2011)の1月と記憶している。イベントが市民会館であり、立川駅南口からの道中に見かけたのである。純和風住宅に洋館が付属した特徴的な佇まい(洋館付き住宅と言われている)は、古き良き時代の建物のイメージにぴったりで、通りを歩く人をちょっと嬉しくさせてくれる外観なのである。東日本大震災後に再び前を通りかかったところ、以前と変わらない姿を見ることができ、胸を撫で下ろしたこともあったが、平成30年(2018)の春に取り壊しの時期がきてしまった。幸い解体前に内部を拝見することができたので、今回は洋館付き住宅・嶋田邸を紹介したい。

洋館付き住宅は大正から昭和初期という限られた時期に建てられた時代性の強い建物で、嶋田邸も戦前の建物と思われた。建物の特徴は何と言ってもその外観にある。洋館を和館にそのまま付属させた意匠で、和洋折中と言うよりも、「洋館」を横に付けたということが明らかに解ることが重要なのである。




洋館部分は屋根だけでなく、壁の仕上げも独特、ここではドイツ壁となっていた。窓は両開き窓。

洋館部分は屋根だけでなく、壁の仕上げも独特、ここではドイツ壁となっていた。窓は両開き窓。



間取りは入母屋屋根の格式の高い玄関を中心に左に洋館、そして右側に座敷を設け、廊下を介して茶の間、その奥に水廻りを設けた配置となっている。間取り上は、洋間とそれ以外の和風住宅に分けられるが、屋根に着目すると「洋館」と「玄関」と「座敷」にそれぞれ独立した棟を持つ構成となっている。「洋館」の棟が一番高く、「座敷」はやや低くしながらも安定感のある構えである。「玄関」の左右に棟の高さの違う「洋館」と「座敷」を配置することでそれぞれの独立性をより際立たせているのだ。実に、凛々しい外観である。そしてこの三つの要素を「茶の間+水廻り」の棟が内助の功のように裏方で繋いでいる。洋館付き住宅の王道を行く建物と言えよう。


錦町の洋館
平成30年の年の瀬も近づいた頃、嶋田邸に住んでいた上出亨・久美子夫妻(嶋田邸は奥様のご実家)にお話を伺うことができた。洋館付き住宅に住み始めたのは昭和27年(1952)頃とのことで、柴崎町で酒屋を営んでいたご家族で引っ越してきたとのこと。奥様が保管していた当時の登記書類を拝見すると、昭和26年(1951)に砂川の中野清蔵から不動産を購入したと記載されていた。建物を建てたのが嶋田さんではなかったことが判ったが、建築年に関する情報は残念ながら確認できなかった。

法務局で家屋の登記事項を遡ると、建物を最初に登記したのは、豊川秋子との記載があった。しかしながら昭和24年(1949)に建物を登記しながらも、昭和25年(1950)に島田定子(久美子様のお母様)に所有権が移転していた。旧土地台帳を見ると沿革の欄が「昭和19年(1944)耕地整理賃貸価格」から始まっており、所有者の欄に中野清蔵とあった。それ以前の記録は辿れなかったが、耕地整理前は一面が桑畑だったと言われている。

立川駅の南口の歴史を理解するには「耕地整理」を知る必要がある。大正11年(1922)に立川陸軍飛行場が開設されると、立川町は飛行場の町、そして軍都として人口が急激に増えた。立川市史によると大正10年(1921)から昭和16年(1941)の20年間で、人口が4772人から42176人と9倍弱に増たことがわかる。宅地の乱開発を防ぐために、土地の整理が急務となったため、耕地整理組合によって農地の区画整理(立川町ではまだ都市計画が策定されていなかったため耕地整理法が拡大解釈された)が行われた。区画開発のある町と言えば隣町の国立大学町(大正末期から昭和初期に開発)が有名であるが、国立は箱根土地株式会社による事業なのに対し、立川の場合は地元の組合事業で進められたことに着目したい。町の人たちが危機感を持って行った街づくりにより、南口一帯の良好な街並みが整備されたのである。

洋館付き住宅の建つ錦町も第二耕地整理(昭和10年認可、昭和18年に完成)によって土地が整理れた。第二耕地整理組合の名簿には中野清蔵氏の名前も確認できた。つまり耕地整理によって区画された宅地を、昭和19年に中野氏が借地として貸していたことがわかる。その後、豊川氏が洋館付き住宅を建てて昭和24年に家屋を登記しことになるが、太平洋戦争中に洋館を建てたとは考えにくく、戦後に建物を建築し、登記したと考えて差し支え無いだろう。

立川の戦後は立川陸軍飛行場が進駐軍に接収され、米軍基地の町として発展するようになった。洋館付き住宅が戦前の限られた時期に建てられたことは既に述べたが、新たな時代の幕開けに何故洋館付き住宅を建てたのだろうか…。このような考え方は後の時代の人間による歴史の押し付けなのかもしれない。戦争も終わり、ようやく憧れだった住まいを建てられるようになったと捉えた方が素直ではないだろうか。

改めて間取りを見ると、家族団欒の茶の間、日当たりの良い台所。来客動線と家族動線の分離。戦前の住宅に存在した女中部屋がないこともわかる。格式を重んじる外観ながらも、家族本位の間取りと言える。実際に嶋田家では家族四人で住み、洋間は子供部屋、座敷は寝室として使われていたとのことだ。間取り的にも工夫次第で現在でも住むことが可能な家なのである。ただし、冬の寒さ対策だけは必須のようだ。

洋館付き住宅を通して耕地整理という街づくり事業が昭和初期の立川で行われていたこと、そしてその結果、現在の南口の元となる区画が出現した歴史に触れることができた。古い建物は正に土地の生き字引であることを改めて実感した取材であった。これからも歴史ある建物と丁寧に向き合っていきたい。

【参考文献】
■「昭和初期の耕地整理と鉄道網の発達」/1999年/立川市教育委員会
■立川市史 下巻/1969年/立川市