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「海鼠壁の擬洋風建築」 相模原市

  • 建物雑想記
  • 2018.11.15
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今回紹介する建物は、相模原市南区磯部字勝坂に現存する擬洋風建築・旧中村家住宅である。2階の外観が擬洋風で、1階と内部は上質な古民家の造りとなっている。左の写真は関東大震災前に撮影されたものだが、なんと木造3階建であった。残念ながら関東大震災後に3階部分は減築され、2階建になったが、海鼠壁の特徴的な建物を現在でも見ることがきる。

「擬洋風建築」は幕末から明治初期に建てられた和洋折中の建物で、日本の大工が自ら持っていた技法や技術を駆使して洋風を表現した建物のことを言う。和のようで和ではなく、洋かと思えばやはり違う、実に魅力的な建物なのである。この連載は今号で56回目となるが、過去に擬洋風建築を紹介したのはあきる野市の小机家住宅(明治初期の建築)だけである。極短い期間しか建てられなかったので、現存する数も少なく、貴重な建物なのである。小机家住宅はベランダコロニアル様式の擬洋風建築であったが、旧中村家は一味違う。洋風を目指したはずなのに伝統的な海鼠壁が使われているのだ。

「海鼠壁」は土壁の外側に平らな瓦を張り、目地に海鼠のように蒲鉾形に漆喰を盛ったもので、太平洋側の関東以南の雨の多い地域でつくられた。元々は土壁を雨から守る技法であるが、防火性能も高いことから、江戸時代には城郭等に広く使われ、幕末には江戸市街の屋敷にも使われた。日本の伝統的な壁の一つである。海鼠壁自体も瓦と漆喰のコントラストが強い特徴的な壁だが、洋風のモチーフという訳ではない。なぜ擬洋風建築に海鼠壁が使われたのだろうか……。

中村家は勝坂の素封家で幕末には生糸貿易で栄え、擬洋風建築の主屋を建てたが、建築年は定かになっていない。相模原市史によると敷地内にある稲荷社が慶応3年(1867)の建築で、それよりも前、つまり幕末に建てられたとされている。僕の認識では、居留地から離れた場所(勝坂から横浜まで約30㎞)に建つ擬洋風建築は明治になって建築されたイメージがあったので、この建築年代にいても少し探ってみたい。

生糸貿易と言えば横浜であるが、横浜港が開港するのは安政6年(1859)で、稲荷社の建築される慶応3年(1867)までの8年の間に、擬洋風建築が建てられたと考えられる。横浜港開港3年後の文久2年(1862)には輸出額の80%を生糸が占めるようになり、生糸貿易が繁盛していたことがわかる。この頃には山下居留地も整ったとされるが、建物は木造漆喰の物が多く和風色が強かったようである。ところが、慶応2年(1866)に居留地で火事があり、建物の大半が焼失したことから、より火災に強い建築が求められるようになった。本来であれば石を使った建築が西洋建築の王道ではあるが、石を使うと工期も費用も嵩むので、その代用品として注目されたのが、平瓦と漆喰でつくる日本の海鼠壁であった。米国の建築技術者のフリッジェンスが火災後、慶応2年(1866)にイギリス公使館に海鼠壁を使ったが、これが洋風建築に海鼠壁を採用した最初の事例とされている。海鼠壁は日本の技術なので、地元の材料と職人で難なく施工することができた。

その後、明治元年(1867)の築地ホテルを始め、明治初期まで洋風建築のモチーフとして、海鼠壁が多用された。お雇い外国人技師が来日すると、本格的な西洋様式建築が建てられるようになり、擬洋風建築と共に洋館の意匠から姿を消すことになるのである。
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中村家が主屋を建てたのが慶応3年よりも前とされるが、その直前の慶応2年にイギリス仮公使館が建てられているので、時系列の上では主屋の建設の前にイギリス仮公使館を見ることができる。中村家は生糸貿易で財をなし、横浜にも不動産を所有していたとのことなので、イギリス仮公使館を見ていたと考えても差し支えないだろう。そして、主屋のイメージを大いに膨らましたと推測できる。イギリス仮公使館見たことにより、海鼠壁も洋風建築の要素の一つと捉え、勝坂にこのような擬洋風建築が建ったと考えられる。

また、市史には主屋の完成までに10年の歳月を要したとあるが、確かにこれだけのケヤキ材を確保し、製材するには、それなりに時間がかかりそうだ。しかしながら、慶応3年に主屋を建てるためには、何年も前から材料を吟味して普請の準備を進める必要があるが、その時期にはまだ海鼠壁のイギリス仮公使館が建っていないという矛盾が生じてしまう。もともと主屋を建築する予定で、間取りの検討の目処が付き、材料を集めているところに、横浜で海鼠壁の洋風建築と出会った。そして、外観を洋風イメージに変更した結果、擬洋風建築ができあがったのではないだろうか。主屋の建築が数年早ければ、上質な従来の民家建築になり、遅ければ、擬洋風ではなく、より様式建築に近い建物になっていた可能性もある。正に絶妙なタイミングで建った唯一無二の擬洋風建築と言えよう。

この主屋で特筆すべき事柄として、3階建てであったという点も挙げられる。江戸時代は長らく3階建を建てることは禁止され、幕末の慶応3年(1867)に禁止令が解除されている。これは勝坂の擬洋風建築が建てられたとされる時期と重なる。幕府によって抑制されていた富豪層の普請熱がここに来て一気に放たれたのが、この擬洋風建築だったと考えたいところだが、そうするとまた、建築期間と調達材の矛盾が生じることになる。ここら辺は、幕末の動乱の機に乗じて高さ制限などは無視して、最初から3階建ての主屋を計画していたと考えるのが素直なところであろう。余談だが、我が国における木造3階建ては、その後の建築基準法により準防火地域と防火地域での建築が禁止され、再び建てられなくなる時期が長く続いていた。今日のようにどこにでも木造3階建てが建てられるようになるのは、基準が改正される平成19九年(2007)まで待たなくてはならない。

今回は紙面の都合で内部の話は割愛させていただいたが、旧中村家は骨太のケヤキ材(大黒柱が43.5cmもある)がふんだんに使われた、上質な民家建築でもある。建物は平成18年(2006六)に国の登録有形文化財に登録、その後相模原市に寄贈され一般公開されているので、ぜひご覧いただきたい。

【参考文献】
■相模原市史 文化財遺産編/2015年/相模原市教育委員会
■相模原市文化財調査報告書 幕末の和洋折衷三階建て住宅・中村家住宅/2001年/
相模原市教育委員会/(写真引用元)
■日本の近代建築・上/藤森照信/岩波新書
■建物高さの歴史的変遷(その一)/大澤昭彦/土地総合研究2008年春号