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「旧東京府水産試験場吉野養魚場」 青梅市

  • 建物雑想記
  • 2014.11.16
旧吉野養魚場01

このコラムで以前、奥多摩の洋風建築をレトロカメラマン伊藤氏と共に紹介した。平成20年の旧小河内小学校、そして平成24年の旧丹波山郵便局だ。その取材の道中、都道四五号(吉野街道)の柚木にひっそりと洋館が建っているのを見かけ気になっていた。街道から見る限りは、使っている気配はなく、何時解体されてもおかしくない様子だった。前を通る度に、「まだあった!」と伊藤氏と胸をなでおろしていたが、この度、機会を得て取材することができた。


この小さな洋館は旧東京府水産試験場吉野養魚場(青梅市柚木)の事務所棟として大正11年(1922)に建てられた。敷地の横を流れる多摩川はアユやヤマメ、イワナ等、冷水性の魚が豊富な漁場で、江戸時代には多摩川の鮎を将軍家に献上したと言われている。明治に入り東京府が施行されると、東京市の人口は急激に増加した。淡水魚も動物性タンパク質資源として需要が増え、天然産の供給だけでは需要に対応できない状態となっていた。また、人口が増え続ける東京の飲料水を確保するために、明治24年(1891)に羽村に取水堰が設けられたが、この堰が魚の遡上を阻害し、上流のアユの数が激減する結果となった。このような状況から、需要に対して安定的に魚を供給するために柚木に養魚場が建設されたのである。

青梅線が二俣尾駅まで大正9年(1920)に延長され、吉野養魚場は二俣尾駅から徒歩で行ける場所につくられた。養魚場として、カワマスを育てる豊富な清流が確保でき、中央との交通の便を保つことのできる絶好の場所だったと想像できる。その後、軍畑駅が昭和4年(1929)に開業して周辺の開発が進み、カワマスの生息地に大きなな影響を与えるようになった。また渓流釣りの流行や、幻に終わった昭和16年の東京オリンピック、紀元2600年祝典の影響を受け、養魚場の拡張が求められ、昭和15年(1940)に軍畑よりも上流に奥多摩養鱒場が開業する。その後、吉野養魚場は府営養魚場としての役目を終え、柚木生産森林組合に払い下げられ現在に至っている。
吉野養魚場は東京府水産試験場の資料によると、敷地が1205坪、事務所(19坪)、孵化室(16坪)等の建物が8棟、養魚池13面(合計水面積543坪)と大がかりな施設であったことがわかる。現在は池の大半は埋め立てられ、駐車場として使われている。吉野養魚場時代の施設としては、事務室と孵化室の二棟と養魚池一面が残っており、かろうじて当時の状況を知ることができる。今回はこのうちの事務所棟を紹介したい。

旧吉野養魚場02


旧吉野養魚場04
旧吉野養魚場05


事務所棟は木造平屋建て、瓦葺きの切妻屋根で、外壁は南京下見板張りのシンプルな建物だが、入口部分に特徴的なポーチが付属している。ポーチの左右には手摺が設けられており、ベランダのような造りになっている。地面からの段差がないので手摺は要を成していないが、この部分があることによって、建物がコロニアル風のイメージを醸し出しているのだ。またポーチ屋根を支える柱の袖壁が上に行く程、大きくなる逆三角形の形をしているのも他に例を見ない意匠である。東京府水産試験場の建物であることを考えると、それなりの設計意図があったはずなので、どのような経緯でデザインされたのか興味があるところだ。

屋根等が壊れている部分もあり、損傷も無視できない状況となっているが、柱や梁の架構はまだしっかりとしているようだ。土台の継ぎ手は「金輪継ぎ」、梁には「追掛大栓継ぎ」が採用されている。これは構造材に曲げ力(回転力)が生じても、継いだ部分が壊れにくい最上級の継ぎ手である。また、梁や柱の接合部には羽子板ボルト等の接合金物が確認できた。事務所棟は伝統的なの和小屋の構造なので、通常の造りであれば、まだ接合金物が使われる時代ではないので、ここでも地震に対する高い配慮を見ることができる。

仕事柄、古い建物を実測する機会が多いが、骨太な古民家以外では架構の継ぎ手に「金輪継ぎ」や「追掛大栓継ぎ」は見られず、簡易的な「鎌継ぎ」で継がれているケースが大半である。接合部の金物も標準的に見られるようになるのは、新耐震基準の施行される昭和56年(1981)以降だ。以前このコラムで紹介した日野市の旧蚕糸試験場第一蚕室(昭和7年築)でも事務所棟と同等の継ぎ手や金物が確認できたことから、戦前の木造公共建築が標準的に高い仕様で建てられていたことを窺うことができる。旧吉野養魚場事務所棟は大正11年の建築なので関東大震災、東日本大震災と二度も大災害に遭遇しながらも、大きな被害を受けなかったのは、東京府の施設として設計され、その仕様でしっかりと建てられていたからだろう。

旧吉野養魚場は現在、柚木生産森林組合の所有であることは既に述べたが、敷地は伊藤運送株式会社がトラックの駐車場として使っている。旧吉野養魚場の建物で現存するもう一方の孵化室は、控室として現在でも活躍中だ。空き家の状態が続いている事務所棟も、状況が整えば利活用したいと伊藤運送株式会社の伊藤恵章氏は前向きな姿勢だ。近い将来そのような状況が訪れることを願っている。

今回の取材では、伊藤氏をはじめ、柚木生産森林組合の山下和久氏に協力をいただき、また東京都農林水産振興財団奥多摩さかな養殖センターには貴重な資料を提供していただきました。お礼を申し上げます。

【参考文献】

■『東京府下内水面に於ける水産の概況』 東京府水産試験場 昭和15年(1940)
■『東京都水産試験場50年史』 東京都水産試験場 昭和53年(1978)