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「洋風建築だったハウス・米軍ハウス」 福生市

  • 建物雑想記
  • 2014.07.01

ハウス 福生 終戦後、進駐軍による占領と同時に進駐軍のための施設が次々に建設され、中でも「DEPENDENTS HOUSING」(以下:DH住宅)と言われる将兵家族向け住居が1946年からわずか3年間で13000戸も建てられた。その後、基地の外にもDH住宅に習い、数多くの米軍用の戸建て住居が民間でも建設された。1970年以降は、基地外部の米軍用住宅の多くが空き家になり、日本の若者が移り住むようになった。そしてこられの住宅は「ハウス」の通称で呼ばれるようになる。DH住宅のアメリカを彷彿させる開放的な空間と、充実した住宅設備は、「キャデラック」に通じるような魅力があり、数多くのアーチストがこの場所から誕生した。「ハウス」は単なる「house」のカタカナ表記ではなく、このような物語を含んだ和製英語と言える。


今回、様々な縁が繫がり、福生の「ハウス」を見学することができた。築後60年にもなる古家が丁寧に維持管理されており、当時の状況がそのまま残っていた。このハウスを借りているK氏はDH住宅のバイブルとも言われている「DEPENDENTS HOUSING」の原書を所有されており、貴重な資料を拝見することができた。この場を借りて改めてお礼を申し上げたい。DH住宅の資料により、基地の内側の住宅と基地の外に建てられた「ハウス」を比較検討することができた。

まず「ハウス」の外観を見ると、屋根は鉄板瓦棒葺きの屋根で四寸五分勾配、外壁はモルタルの上に左官壁となっていた。昔はセメント瓦葺きだったとのことで、屋根(勾配も合わせて)と壁はDH住宅の仕様に合致している。開口部に引き違いの窓が入っていることもDH住宅と同じだが、窓のプロポーションが「ハウス」の方がより横長で、日本的な比率に近かった。また、DH住宅には無い庇が、全ての窓に設けられていた。逆にDH住宅の標準仕様に入っている窓枠の板金水切は、省略されていた。内部はフローリングの床、壁と天井は化粧合板押縁ペンキ塗装、主室の天井高さ2.45m、システムキッチンや水洗トイレ等の水廻り設備もDH住宅の仕様と同じだ。ここから基地の外に建てられた「ハウス」もDH住宅の仕様にかなり忠実に建てられていたことがわかった。
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室内の様子は、玄関が無く、エントランスドアを入ると(もちろん内開きドアで土足)、すぐにリビングが広がっていた。ゆったりとしたソファーセット、奥にはダイニングが見える。そして何よりも注目したいのは60年前に建てられたにも係らず、現在の生活で必要と思う基本的な住宅設備が既に整っていたことである。間取りは今風に言うと3LDKで、玄関が無いこと以外は、我々の住まいと大差ない。当時はアメリカ人の家として別物と思われていた住宅が、今では違和感を覚えないほど、認識が変化している。
ハウス 福生 間取り
現在の日本人のライフスタイルで「衣・食・住」の衣類は「洋服」で総称されるようにほぼ洋風なスタイルとなっている。「住居」も生活の基本は椅子座なので、靴脱ぎなどの細かいことを除けば洋風と言っても過言ではない。では、いつからこのような生活になったのか……。戦前から食寝分離など、住まいの改善運動はあったが、主に「和」の中での改善が行われていた。体制が大きく「洋」に変わるのは戦後で、つまりDH住宅の影響が大きいと言われている。

 DH住宅の建設に当たりGHQの方針は『日本資材と吾国における設計及び施工技術を以て米人の生活様式を満たすような建物たること』というものであった。また『日本国内の何処に於いても入手可能の資材を以て、日本の新建築技術によって建設されるべきものである。…、同時に日本人にとっては新住居・新生活様式の先駆と見なされ得るものである」とし、DH住宅の建築が、日本の建設業界にとって復興の契機となることを示唆していた。

 DH住宅の設計仕様は、構造や材料、間取り等の個々の建物のことはもちろんのこと、配置計画や外観、色彩等、より良い住環境を構築するための取り決めが細かく検討されていた。しかしながら、DH住宅は基地内に建設された街区だったため、このような先駆的な考え方は日本のまちづくりに影響を与えることは少なかった。「ハウス」とDH住宅を見ても、個々の建物としては同等の仕様となっているが、住環境や街並まで視野に入れると、残念ながらその違いは大きい。

 一方、実際にDH住宅の施工に携わった業者は、アメリカ仕様の住宅設備や家電の設置に苦労しながらも、DH住宅の建設を通して、戦災からの復興をいち早く遂げ、戦後の建設業の牽引役を担っていった。現在の日本の住宅がメーカー主導で、個々の家の性能が優先され、街並の配慮に乏しいのは、ここらへんにルーツがあるのかもしれない。

 このコラムでは多摩に現存する洋風建築を紹介してきたが、ここで洋風建築の伝播の過程を整理してみたい。最初の「洋風」はあきる野市の小机邸(本誌145号)で見られたベランダコロニアル様式①、これは東南アジア等の植民地経由で入ってきた洋風建築だ。次に東京大学田無農場(本誌134号)に見られる、下見板コロニアル様式②、これはアメリカの開拓をへて大陸を横断して入ってきた洋風建築である。そして一橋大学(本誌151号)のように直接西欧の様式建築を学んだ建築家による様式建築③も明治後期から登場してきた。①から③までの洋風化はあくまでも建物の意匠の変化であり、人々の生活自体は近世からの和式の生活が主流であった。その後、DH住宅、「ハウス」④により、住宅設備・家電が登場し、家の内部から、つまり生活習慣の洋風化が始まった。そして、幸か不幸か「ハウス」を特別視することなく受け入れることができる程、我々の住まい感は変化したのである。ここに明治時代から続いた一連の洋風化が完了したと言えるだろう。

洋風建築伝播マップ
【参考文献】
■『DEPENDENTS HOUSING』商工省工芸指導所・他  技術資料刊行会 1948

■『占領軍住宅の記録(上・下)』小泉和子(編) 住まいの図書館出版局 1999
■『日本の近代建築(上・下)』藤森照信 岩波新書 1993