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「旧丹波山郵便局のナゾ解き」山梨県北都留郡丹波山村

  • 建物雑想記
  • 2012.08.01
 このコラムでは「多摩」と地域を限定し、近代建築を紹介してきたが、今回は山梨県北都留郡丹波山村の建物を取材することになった。たまたま近県の建物の情報提供があったので、取材範囲を拡大したかというと、そういう訳ではない。実は丹波山村は山梨県にありがならも、奥多摩町、東京都と深い繋がりのある地域で、青梅街道(甲州裏街道)の宿場町として栄えた村だ。甲府盆地へと辿る峠の東京側に位置するので、生活圏は甲府よりも奥多摩側に属している地域である。さらに、分水嶺が峠にあることから、丹波山村は多摩川の源流となる重要な場所で、村の森林の70%が東京都水道局の管理する東京都水源林という、我々の生活とも繋がりある村なのだ。そのような訳で今回の取材が実現したのだが…、前置きはさておき、実際に建物を見て行きたい。
旧丹波山郵便局2012
 旧丹波山郵便局は大正12年に建てられたとされる木造建築で、老朽化していることから、今回は外側のみの取材となった。寄せ棟屋根に南京下見板張りの素朴な建物で、板壁のペンキ塗りと道路側二階の縦長窓が「洋風」であることを主張した、愛らしいファサード(正面)を持つ。建物に関する情報がほとんど無く、室内の見学もできなかったので、外観だけで判断する現場勝負の取材となったが、その分、外側を丁寧に観察する時間ができ、建物に関する様々な手がかりを得る事ができた。前掲の「洋館への誘い」で伊藤氏が「ナゾ」として列挙してくれたので、考察してみよう。

[ナゾその一]門扉と建物が近い
[ナゾその二]基礎がコンクリート
[ナゾその三]外壁から松の木が生えている

順を追ってと思ったが、実は三つのナゾは同じ要因に起因すると推測できる。それは前面道路の拡幅だ。[ナゾその二]の手がかりからナゾ解きを行うと、次のようになる。大正時代の建物だとすると、建築当初から基礎にコンクリートが使われていたとは考えにくい、仮にコンクリートであったとしても、現在の基礎が劣化していないのは不自然なので、ある時期に造り替えていると判断できる。しかしながら基礎を造り替えるためには、建物と基礎を切り離し、上部構造を持ち上げるか、別の場所に移動してなくてはならず、一大事だ。必然性が無い限り行われない工事と考えていいだろう。そこで建物を移動しなくはならない必然があったとすると、土地の区画整理や道路の拡幅等が考えられる。丹波山村でそのような状況があったとしたら、昭和32年の小河内ダム完成後の甲州裏街道(後の国号411号)の道路整備が該当すると思われる。
旧丹波山郵便局 昭和47年
ここで、インターネット上の検索で発掘した一枚の写真を紹介したい。昭和47年2月当時の丹波山郵便局の写真だ。道路側一階のファサードが現在と違い、建物の中心に観音開きのドアがあったことが分かる。二階の窓と合わせて、一階も左右対称のデザインになっていて、今よりも正面性を意識した洋館だったようだ。ドアを挟んで右側にはお馴染みの赤ポスト、左側には時間外窓口もあったようだ。村の郵便局として活躍していた当時の様子の分かる貴重な一枚である。この写真を、道路拡幅という視点で改めて見ると、地面と基礎との取合いが不自然に見えるのだ。昭和47年と言えども、築後50年以上は経っているので外構もそれなりにしっくりと整っていてもいいはずだが、今しがたスコップで土を被せたような、工事中のように見えるのである。恐らく、道路が拡幅されるために、建物を北側(後ろ)に曳屋した直後の写真と思われる(建物を動かすことを曳屋と言う、下図参照)。左隣の建物は郵便局よりも手前にあるので、まだ曳く前の位置と判断できる。つまり、この左隣の建物と郵便局の前面道路との壁面線のずれが、曵屋したことを物語っていると言えよう。写真から判定すると一間(1800mm)程度北側に動かしたようだ。このように建物を一間程度北側に曳屋したとすると、ナゾが一気に解けてくる。
旧丹波山郵便局と松
[ナゾその一]について。昭和47年の写真の写真では、門扉はまだ拡幅前の道路際に建っているように見える。この後、いよいよ道路が拡幅され、現在の位置まで動かしたと考えられる。[ナゾその三]について。外壁から生える松の木は、普通に庭に植えられていたところに、郵便局が後ろに曳かれてきたと考えるのが素直だろう。元々あった松を切るのも忍びなく、建物の基礎を壊し、松の根元を建物の中に取込む事で共存させた結果のようだ。建物の基礎の配置からして、どうも郵便局が建つ前から松の木は主屋の前庭にあったと思われる。郵便局の建物の北東の角の基礎だけが元々独立基礎になっていて、松の根元を避けた造りとなっていたようだ。明治の建築当初から、余裕の無い配置だったところに、道路の拡幅による曵屋が行われ、正に苦肉の策だったと想像できる。

旧丹波山郵便局図解
今回のキイワードでもある「曳屋」という言葉は、聞き慣れない建築用語だと思うが、昭和の時代までは建物を曳屋することは珍しいことではなかった。都心部では木造だけなく、鉄筋コンクリートのビルも動かしたという記録が残っている程、その技術は広範囲に活用されていた。旧丹波山郵便局が曳屋されていなければ、道路の拡幅時に建物のファサード(正面の顔)の解体は免れず、郵便局自体ももっと早い時期に建替えられていた可能性が高い。「曳屋」は建物を動かす技術だが、建物を残して、活用するための方法論でもある。現在では、土地に余裕がない敷地が多く、曳屋の現場を見かけることは稀になってしまったが、大切な建物がピンチの時には、選択肢の一つとして検討したいものである。