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「地産地消の建物」日の出町公民館 あきるの市

  • 建物雑想記
  • 2011.11.01
日の出町公民館が解体されると聞き、8月の初旬に公民館を訪れた。既に工事用の仮囲いに囲われていたが、建物はまだ現役当時の姿のまま建っていた。解体を待つ建物の紹介をするのは、どうも気が引けるが、このような建物があったのだということを、記録することも我々の務めだと思い、今回はその魅力を綴りたい。
建物雑想記 旧日の出町公民館
外観は横に連続した窓が印象的な四角い建物で、中央部に冠のように円形の装飾が施してあった。「日の出」をイメージしたデザインではないかと思われたが、建設当時はまだ大久野村の時代(日の出町は1955年に大久野村と平井村が合併してできた)なので、偶然の一致のようだ。それにしてもこの円形の装飾は絶妙なバランスで上に飛び出していて、何とも愛嬌のあるファサードをつくっていた。実はこの装飾を含めて、四角い屋根周りの外観はハリボテなのである。建物の側面に回って屋根を見上げると、切妻の屋根の端部を折上げて、さらに外壁面を立ち上げて、わざわざ四角く見せているのがわかる。このように、正面からのデザインのためだけに、建物の外壁を看板のように型取った洋風建築を「看板建築」といい、関東大震災後の木造建築の不燃化と重なって、商店や店舗等で幅広く取り入れられた意匠である。
旧日の出町公民館間取り図
公民館は戦後間もない1952年11月に竣工した。モルタルで塗り込められた円柱に支えられた車寄せから玄関ホールに入ると木の独立柱が目につくので、外観では不明だった建物の構造が、木造であることがわかる(看板建築は木造を木造らしく見せないところがミソである)。講堂へと入る両開き扉が柱を挟んで二組付いているが、講堂の内側から見ると、建物の中心に設置されていると思われた柱が、何故か西側にずれているのだ。「公民館のしおり1954」に竣工当時の仕様や図面が載っているので、現況と見比べると、当初は「鉄筋コンクリート映写室」なる部屋が玄関ホールと講堂の間にあったことがわかる。映写室を中心に、その左右を通って講堂へと出入りしていた。関東大震災以降、活動映画からフィルムのトーキーへと時代が移るが、当時のフィルムはしばしば発火し、木造映画館の火事は社会問題となっていた。その防火対策として「鉄筋コンクリート映写室」が造られたと推測できる。その後、不燃性フィルムが普及したことで、火災の危険性は薄らぎ、鉄筋コンクリート映写室も解体撤去されたのだろう。玄関ホール部分は全面改装されているので、当時の状況と変わっているが、中心から偏芯した柱は、かつてここに映写室があった時代の名残だったのである。

「公民館のしおり1954」からは、どのように公民館の工事が進められたのかも知る事ができる。戦後民主化が叫ばれ、社会教育の重要性が高まる中、老朽化した小学校の講堂と合わせて公民館の建設が求められた。そして、公民館建設委員が結成され、基礎部、木材部(木材は全て村産木材を使用)、大工部、建具部の現場監督は村会議員が各担当し、さらに公民館新築工事が村直営工事で行われたと書いてあった。現在このような工事体制で公共建築を建てるのは難しいと思われるが、当時の村議会がいい意味で地場産業と直結していたこと、そして自分の村の施設を自分達で建てるという「結」的な発想がまだ残っていた時代だったからこそ、実現できたのではないだろうか。
林業が主産業の村だったので、村産材を使い、木材に関わる大工工事や建具工事を村で担当できるのは理解できるが、基礎工事までも担当できたとは……。実は大久野村では、石灰石が採掘できた(現在でも大手セメント会社の工場がある)。石灰石はセメントの材料で、コンクリートはセメントと水と骨材を調合して造るので、基礎の鉄筋コンクリート工事も村の関連業者で施工可能だったと推測できる。講堂に入ると、舞台の造りに圧倒される。舞台自体は、客席と舞台の境に左右対称のプロセニアムアーチ(額縁)を持つ一般的な造りだが、その額縁を構成する枠組がすごいのだ。額の左右に直径20cmを超える絞り丸太(恐らく杉)の大木が立ち、額の上下に磨き丸太(桧と思われる)、これは巨大な床框と落し掛けと言えよう。プロセニアムアーチを「床の間」に見立てて銘木で構成した、林業の村ならではの舞台だ。
日の出町公民館講堂
玄関ホールから二階に上がる通路は、幅が一間もありゆったりとした造りになっている。現在はビニール系の床材で覆われているが、当初は縁甲板張の廊下だったとのこと。壁はもちろん土壁に漆喰だ。ちなみに、漆喰も石灰石が原料なので、建設時に塗られた漆喰は地場産だった可能性が高い。廊下を挟んで北側に講堂、その南側に21帖の広さの和室と36帖の大会議室がある。和室の大広間は左官による京壁仕上げで、一間幅の床の間と違い棚が設えてある。全体的に力強い大味な意匠だが、違い棚の束(海老束)に目を見張る凝った細工が施されていた。良く観察しないとそれと気がつかないような細かい仕事で、「今回は質実剛健の意匠だが、こんな繊細な仕事だってできるぞ」と言う職人のメッセージが込められているような気がした。大会議室も今は床が改修されているが、竣工当時は縁甲板張の床に羽目板張りの腰壁、その上が漆喰、そして天井は格天井という最上級な洋室だったことが想像できる。日の出町公民館は地元の材料を使い、地元の手で造られた公民館で、無垢の木に土壁、漆喰仕上げという、現在であれば皆が憧れる、自然素材を使った地産地消の公民館だったのだ。

玄関ホールの両側から二階に上がる階段が当初東西につくられていたが、後に東側の階段を講堂側に下るように改修されていたことが、当時の間取り図から分る。これは二階の居室から外部に出る避難経路を二方向確保するために改造されたと思われる。建物に関する法律、建築基準法は1950年に施行されたが、その後、度々改正が行われ、年々規定が厳しくなっている。古い建物は、その当時の基準で造られるので、法が改正される度に基準にそぐわない部分が増えていく状況にある。このような建物を「既存不適格」と言うが、公民館のように不特定多数の人が使う建物は、上述の避難経路や耐震性能等、人命に関わる基準に関しては、地方自治体がその都度必要性を判断し、不適格部分を是正する改修工事を行っている。

日の出町公民館もこのようにして、改修を続けながら今日まで活用されてきたが、建物を見る限り耐震補強はまだ行っていないようである。今後、使い続けるためには耐震補強工事は不可欠だが、耐震性能を現行の基準まで上げるためには構造を根本的に補強する必要があり、当然それなりに費用もかかる。日の出町公民館の閉鎖も、他の戦前の木造建築物同様、耐震性能に起因するところが大きいと推測できる。総合判断での解体であれば仕方あるまい。今までの60年間近く地域の建物として活躍した公民館に「お疲れ様でした」と、労をねぎらいたい。