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「煉瓦積みの蔵」 Coffee Bricks 八王子市

  • 建物雑想記
  • 2010.11.01
Coffee Bricks
国道16号線を八王子から横浜方面に向かって京王高尾線をくぐると右手に煉瓦造りの洒落た建物「Coffee Bricks」が見えてくる。周辺の建物よりも求心力があるので、容易に見つけることができる。建物自体が重いという物理的な質感だけでなく、本物の素材感から漂う魅力に引きつけられるからだろう。
建物雑想記 Coffee Bricks図解
この煉瓦造りの建物は大正7年に建てられた米蔵が喫茶店に転用されている。建設当初から煉瓦が積まれていたとのことで、興味深い建物だが、正確には煉瓦造ではなく木骨の蔵に土壁の替わりに煉瓦を積んでいるのだ。プロポーションは普通の和風の蔵と大差なく、煉瓦が使われているだけであるが、外部の切妻部分にはペディメントという遠くはギリシア建築に通じる洋風の意匠が施されている。その切妻の上は純和風の造りになっていて、屋根は桟瓦葺きで棟には鬼瓦まで乗っているのだ。しかしながら、全体としては不思議とまとまっていて、一度見たら忘れられない印象的な建物である。

八王子市伝統的建造物等文化財調査報告書(平成13年八王子市郷土資料館発行)にこの蔵の記載がある。国道16号線に面しているものの、店蔵ではなく精米用の米蔵として造られたので道路側には客用の出入口はなかったようである。現在は通りに面して一階に観音開きの鉄扉が一つ、二階に同じく鉄扉の付いた窓が二つ設置されている。実はこれらの開口部は喫茶店に転用する時に、道路の反対側の壁に設置されていたものを移設した装飾品(室内側は壁があるだけで窓がない)なのである。外部から見ると馴染んでいるで、昔からそこにあったかのように思える程である。
建物雑想記 Coffee Bricks
米蔵は平成2年に塚本勇喜氏が改修し喫茶店になった。祖父の建てた煉瓦の米蔵を喫茶店にすることは昔から家族の思いにあったとのことで、満を持しての開業だった。改修計画は建築家天野翼(八王子市散田の「野鴨の家」等を設計)によってデザインされた。前述の鉄扉の移設には既存の部材を再利用しながら、端部が丸く曲げられた鋳物の持ち送りを新たなデザインコードとして付加している。洋風の鋳物の持ち送りを使うという最小限の行為で、建物の持っている魅力を見事に引き出し喫茶店の雰囲気を造っている。
蔵の内部も築90年を超える風格が感じ取れる素晴らしい空間になっている。煉瓦、骨太の柱と梁という重厚感のある躯体に対して、しっかりとした質感のある椅子やテーブルが設えてあり、全体の調和が保たれている。ベンチやテーブルの厚板は使い方を間違うと材料が主張し過ぎ、そば屋のような田舎趣味になりがちだが、端部をおおらかな曲線でしっかりと形採った品は、正にこの空間のためにデザインされた家具であることがわかる。ベンチに座った時の座面の体へのフィット感は格別であった。
建物雑想記 Coffee Bricks2
大正7年の建築当初から煉瓦が積まれていたとすると、何故米蔵に煉瓦なのか?そんな疑問が沸いてくる。煉瓦と蔵の建つ片倉という場所について掘り下げてみた。実は当時、長沼(敷地から徒歩でも行ける距離)に八王子煉瓦製造株式会社が操業していたのだ。八王子煉瓦製造は中央東線の開業に合わせて明治30年に設立された。鉄道建設のための煉瓦の供給だけでなく、その後の煉瓦需要まで見込んだ工場で、当時最新のアメリカ式のホフマン窯を備えていた。地元にこのような工場があれば、いろいろな繋がりのなかで手の届く素材だったと考えられる。
八王子煉瓦製造はその後、大阪窯業(現住友大阪セメント株式会社)に買収され、昭和7年まで煉瓦の製造が行われていた。余談だが、日本のセメント会社は煉瓦会社と深い繋がりがある。煉瓦を積む目地材にセメントを用いるが、明治時期はセメントを輸入に頼っていたこともあり高価だった。煉瓦会社は煉瓦の製造はもちろんのこと国産のセメント開発も平行して模索していたのである。その後、関東大震災を経ると煉瓦建築が地震に弱い事が通説となり、煉瓦会社はセメント会社へと方向転換していったのである。八王子煉瓦製造に取って代わって、中央東線に煉瓦を供給した日本煉瓦製造も秩父セメント(現太平洋セメント株式会社)と遠いルーツで繋がっている。

煉瓦造りと言えば、その積み方の話を避けて通る訳にはいかないだろう。米蔵の外壁を観察すると、小口積みと長手積みが段違いに積まれているのでイギリス積であるこことがわかる。煉瓦の積み方は大きく分けてイギリス積とフランス積に大別できるが、国内ではイギリス積が圧倒的に多く見られるようだ。これには様々な説があるが、日本の建築教育がイギリス人建築家コンドルからスタートしたからだという所以が濃厚である。また、イギリス積の方がフランス積よりも施工が容易で強度も若干強いことから、大正12年以降は建築学会の標準建築工事仕様書の煉瓦工事において、特記仕様書に指定がない限りはイギリス積とする旨が定められるようになった。しかしながらこれはアカデミックな中央の話であって、片倉の米蔵の建築工事に標準建築工事仕様書があったとは考え辛い。事業主のデザイン嗜好や積む職人の経験よるところが強いと推測できるだろう。八王子煉瓦製造の歴史を紐解くと、日本人としていち早く煉瓦製造法を習得した小倉常祐が技師になっている。この小倉常祐は英国人技術者ウォートルスから煉瓦技術を学んだ人物として知られている。このような経緯を見ると、地元の職人が煉瓦の積み方を工場から教わり、イギリス積を指導されたと考えるのが自然だろう。

日本では耐震性の難点から現在でも煉瓦造の建物が建てられる事はほとんど無い。明治の終わりに長沼に煉瓦工場ができ、関東大震災の前に煉瓦積みの米蔵が建った。そして、世代を超えて蔵が引き継がれ、90年の時を刻んだ煉瓦の建物の中でお茶を飲めることは奇跡に近いかもしれない。これからもずっと今のまま時を重ねてほしい建物である。

【参考文献】
煉瓦に見た多摩の近代化 清野利明 多摩のあゆみ102号
日本煉瓦史の研究 水野信太郎 法政大学出版局