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「東京の木造校舎」 旧小河内小学校 奥多摩町

  • 建物雑想記
  • 2008.08.01
建物雑想記 旧小河内小学校
今回取材したのは、奥多摩郡に現存する木造の小学校と中学校だ。共に小河内ダムの建設に合わせて、昭和32年に建てられたが、平成16六年3月に惜しくも閉校となった。建物の中は閉校当時のまま時計が止まったように、家具や備品はもちろんのこと、お知らせの張り紙や、学校生活の写真などがそのまま残っており、不思議な空気につつまれていた。レトロカメラマンこと伊藤氏と一緒に取材に訪れたので、昭和の木造校舎と向き合う事ができたが、一人だったらあの空気に耐えられずに引き返していただろう。

さて、今回はこの「木造校舎」について掘り下げてみたい。私は自分の実体験として木造校舎で学んだことはないが、木造校舎と聞くとなんとなくある一定のイメージを思い浮かべることができる。それはおそらく、読者のみなさんと共通のイメージで、まさに今回取材した旧小河内小学校や中学校の建物と一致するのではないだろうか。

このような共通のイメージがあるということは、同じような建物が数多く建てられたと推測できる。調べてみると「東京市立小学校木造校舎の設計規格」という藤岡洋保氏(東京工業大学 教授)が書いた論文(注)と出会うことができた。この論文は東京市における木造校舎の研究なので昭和18年までの事例しか対象になっていないが、戦後はもっぱら鉄筋コンクリートの校舎が建てられたことを考えると、この時期に木造校舎の大枠ができたと予想できる。

東京市の小学校建築は、関東大震災以降に建てられた校舎が既に鉄筋コンクリート造になっていたが、昭和8年の東京市の行政区域の拡大に伴って、校舎の数が不足し、多くの校舎を短期間に造るために木造校舎が再び建設されることになった。つまり学校建築は、木造(明治)→鉄筋コンクリート造(大正)→木造(昭和初期)→鉄筋コンクリート造(戦後)というように時代とともに構造を大別することができる。

初期の木造校舎(明治時代)は構造・構法的には江戸時代の流れを組む伝統構法で建てられた建物が多く、仕様も地域によって様々だったのに対し、震災後の木造校舎は短期間に多くの校舎を建てるために、また公立の学校として学校間に格差が生じる事のないように設計規格に基づいて建設された。規格の作成にあたり耐震、耐火、耐風という構造設計が行われことは言うまでもない。しかし規格ができて間もなく、戦時下の資材統制の中で、当初の設計仕様から金物や柱の量を減らさざるを得なくなってしまうのである。
建物雑想記 木造校舎設計規格表
ここで東京市の設計規格と旧小河内小学校の仕様を比較してみたいと思う(表参照)。表中の「◎」は、東京市の規格と旧小河内小学校の仕様が一致していた項目を示す(目視で確認でき、実際に計測できた項目のみの比較とした)。特筆すべき項目として挙げたいのは、教室のユニットの大きさである。これは普通教室と廊下を合わせた四角形の寸法規格のことだが、両者共見事に9㍍四方となっていた(平面図参照)。また主要な構造の仕様も共通点が多い。耐風壁を窓の両端に三尺づつ配置する仕様や、桁行方向の柱を1.8㍍ごとに置くこと。さらに窓の周りの柱を2本合わせにして、梁との接合部に方杖を入れる手法など、東京市の設計規格と一致する項目が多く見られた(断面図参照)。
建物雑想記 小学校図面
旧小河内小学校

旧小河内小学校

建物の基本となる教室のユニットや構造的な方法が一致していることから、東京市の設計規格を参考にして旧小河内小学校が設計されたと判断できる。もちろん設計規格と仕様の違う部分もある。東京市の校舎では防火の面から外壁仕上を石綿スレート張りにしていたが、旧小河内小学校では木部表しの下見板張りとなっており、防火対策が施されていない。また地盤面から一階の床の高さも設計規格と比べると明らかに低い。ここらへんは市街地に建つ校舎と山間部に建つ学校の環境の差からくる違いと考えるのが妥当だろう。

この東京市における木造校舎の設計規格は、耐震、耐火、耐風そして工期の短縮に関しては多いに有効であったと思われるが、快適性やメンテナンスといった観点でみると、不十分な部分もある。例えば、屋根の軒の出と庇である。本来の日本の木造建築であれば、深い軒を造り、さらに窓の上には庇を設けたはずである。軒や庇は雨から外壁を守ってくれるし、季節によって絶妙に太陽光の入射を調整してくれる。木造校舎では、庇がほとんど見られないし、二階の屋根の軒も浅い。これでは雨や日射に対する効果が期待できない。外壁にペンキを塗らなくてはならないのもこのためであろう。

しかしながら木造校舎としてイメージするのは、やはりこのペンキ塗りの木造建築だとう思う。では何故このような意匠にする必要があったのか……これはやはり、明治維新以降の洋風化政策の名残で、この軒の浅さとペンキ塗りの外壁こそが、他の日本家屋と決定的に違う印象を与え、「和風」ではないということでの優位性を保つためであったと考えられる。他とは違うという違和感があったからこそ、人々の記憶の中に深く入り込み、そしてそれが、古き良き時代の象徴のような位置づけになったのではないだろうか。

旧小河内小学校は東京市の設計規格ができた25年後の昭和32年に建設されている。四半世紀という歳月が経っているのにも関わらず、基本的に同じ物を建てていたことに驚きを感じた。おそらく、戦前の規格で建てられた、最後の校舎の一つであろう。このような校舎が平成一六年まで、現役の学校として機能していたのは、学校建築の生き字引として貴重な存在である。奥多摩には同じような木造校舎が数校現存するが、閉校になって久しく、建物は残っているものの学校の様子をそのまま残している場所は、旧小河内小学校と中学校だけではないだろうか。取材の時に感じた強烈な印象は、建物が最後の力を振り絞って学校で居続けようと頑張っているのかもしれない。この雰囲気を将来に伝えるためにも次なる教育施設として、再生してほしい建物である。

(注)日本建築学会計画系論文集 第515号 1999年1月