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「登録有形文化財・旧梅田診療所」 立川市

  • 建物雑想記
  • 2013.02.01
旧梅田診療所

2012年の暮れ、戦前から立川の街の変遷を見守ってきた旧梅田診療所が解体された。この洋館は10年程前に国の登録有形文化財への登録をお手伝いした建物で、私にとって思い入れのある洋館であった。「洋館への誘い」のレトロカメラマン伊藤龍也氏との出会いや、さらにこの「建築雑想記」を書くきっかけをつくってくれたのも洋館と先代の梅田隆久氏だった。

洋館との出会い

立川駅の周辺はファーレ立川を皮切りに、数年で街の風景が入れ替わる勢いで都市計画が進んでいる地域で、近未来的な新しさのある街だ。しかしながら「こんなにも街が急激に変わっていいものだろうか…」と開発に対する不安を同時に感じる街でもあった。以前の立川がどんな表情だったのか確かめてみたいという衝動にかき立てられ、開発の手がかかっていない地域へと関心が移っていった。
旧梅田診療所と出会ったのは2000年の秋のことである。たまたま大通りから一本住宅街の中に入ったときに、木製の上げ下げ窓のある建物が目に入った。ファーレ立川から目と鼻の先にあるような場所にその洋館は建っていた。当時は洋館の建つ通りを挟んで一四階建てのマンションが建設中で、まさに「開発の波」が押し寄せている状態だった。JR立川駅まで歩いて10分もかからない立地条件なので、この洋館もいずれは開発の波に飲まれてしまうかもれないと思い、洋館をスケッチしたのがことの始まりであった。

空き地に座ってスケッチをしていると、洋館の主人・梅田隆久さんがお茶を入れてくれた。梅田さんは気さくな方で、楽しい一時を過ごすことができた。その後立川に用事があると梅田さんの人柄に誘われて、座敷の縁側でお茶をいただきながら、洋館のこと、昔の立川の話等、様々なお話を伺った。洋館は内科診療所として昭和初期に梅田さんの父親の梅田市作氏が建設。以前は和館と廊下で繋がっていたが、平成に入り放火で和館の大半が消失してしまった。洋館も一部火災に遭ったが、屋根の類焼程度で被害は少なく、その後は長男の光則さんが住居兼仕事場として使っていた。
何度が梅田さんの所にお邪魔しているうちに、洋館の内部を見せてもらう機会があった。飾り気のない外観とは違い、内部は漆喰によるメダリオン(天井装飾)などの装飾が要所にあり、質の高い内装だった。また、応接室には漆喰と人造石研ぎ出しによる床の間風の飾り棚が造り付けてあり左官職人が腕を振るった建物であったことが確認できた。洋館はその都度改修され、活用されているものの、経年変化による老朽化が目立ち、大規模な修繕が必要と思われた。梅田さんも老朽化や耐震性に不安を感じているようだった。このころから私の中で洋館を残す方法はないだろうかと思うようになっていた。
国の登録有形文化財にできればその道も開けてくると思い、登録基準を改めて調べてみたところ「造形の規範となっているもの」及び「再現することが容易でないもの」に該当すると思われた。ただ一つだけ問題があった。登録には築年数の根拠となる資料がいるが、洋館の資料が火災で焼失してしまっていたため、定かではなかったのだ。戦前の建物は小屋裏に建築年や事業主、施工業者の名前を書いた棟札を残す事が多かったので、小屋裏の調査を行う事ができれば、建築年を特定できる可能性が高いと思われた。

国の登録有形文化財について

梅田さんに洋館を国の登録有形文化財にすることを勧めたが、登録制度ができてまだ間もなかったので、まず制度の説明から始めなければならなかった。最近では1958年建設の東京タワーが登録有形文化財になったこともあり、その存在がようやく一般的に知られるようになってきたが、制度の詳細を知る読者は少ないと思うので、改めてここで概要を説明したい。
登録有形文化財制度は平成八年に設けられた国の文化財制度で、それまでの国宝や重要文化財という「指定」による強い規制と手厚い保護によるものとは違い、文化財登録原簿への「登録」によって、歴史的建造物の価値や存在を周知することを目的とし、建物の利活用に対して制限の少ないゆるやかな制度である。登録の基準は、原則として建設後50年を経過したもののうち、「国土の歴史的景観に寄与しているもの」、「造形の規範となっているもの」、「再現することが容易でないもの」いずれかに該当するものである。ちなみに旧梅田診療所は「造形の規範となっているもの」として登録された。
登録文化財が指定文化財と違うのは、改修や修繕などの工事の補助金が出ない代わりに、外観の大きな変更以外に工事に対する規制がないこと、更に所有者の判断で登録を抹消することができることである。

登録有形文化財に対し梅田さんは二つのことを心配されていた。理屈ではわかっていても「文化財」という言葉からは「国宝」、「重文」といったイメージが先行してしまうこと、また洋館を「文化財」にすることで、維持管理が難しくなった時に足かせになることへの不安だ。「登録」と「指定」の違いを改めて説明し、登録後も洋館を現状のまま使いつつ、いよいよとなった場合には登録を抹消して解体が可能なこと、更に指定文化財への格上げも含め、「登録文化財」にすることで何らかの公的な援助が得られやすくなることを補足した。洋館を実際に使っている長男の光則さんの薦めも手助けし、登録への理解を頂いた。

2003年の夏に登録文化財の申請書類を作成するための実測調査を行った。小屋裏の棟木から「昭和四年七月吉日 施主梅田一作 大工矢島幸蔵」という墨書を確認し、建築年を特定することができた。平面図や配置図等の図面を作成し、文京区文化財調査委員である伊郷吉信氏に所見を監修していただき、登録の書類を調えて立川市に提出した。そして半年後の2004年の3月、ようやく文化財登録原簿へ登録された。登録の後、暫く経って真鍮製の登録プレートが届いたと梅田さんから連絡があった。早速、伺うと「こんなすごい物がきちゃったよ」と満面の笑みを浮かべて出迎えてくれたのを覚えている。登録プレートは建物を見に来る人に配慮して、表通りから見える玄関の脇に設置されていた。現在でもブログ等で旧梅田診療所の写真を見かけるが、正面玄関の写真の中に登録プートが写っているのが確認できる。

▼登録時の資料
旧梅田診療所登録資料01
旧梅田家診療所登録資料2
旧梅田家診療所登録資料3

登録有形文化財の現状

登録文化財制度ができてから今年で十七年になるが、登録件数は期待した程増えていない。本誌121号(平成18年2月)でも登録文化財について紹介したので、当時記載した登録件数表に平成24年現在の登録数を追記してみた。制度のできた当初は、登録件数5万件を目指すという大きな目標があった。「地域で良いと思われる建造物はどんどん登録し、ごまんとある文化財が登録文化財なのだと」ユーモアを交えて文化庁の担当者が話していたことを記憶している。立川市では旧梅田診療所の登録以降、数は増えておらず、今回の登録抹消で登録数は2棟に減ることとなる。多摩地域では三鷹市以外は登録数が一桁のままで、平成18年以降も状況に変化は見られない。
この状況を見ると全体の登録件数は増えるどころか、減少に転じる可能性もありうる。登録文化財の多くは民間の所有で、既に築50年以上経ており大規模修繕が必要な建物が多いからだ。所有者の代替わりで建物の存続が危ぶまれることも十分予想できる。民間の所有者による維持管理が難しくなった時に、地方公共団体が指定文化財に格上げするのが最も理想的なコースと思われたが、全ての登録文化財を指定文化財にできるはずもなく、更に昨今の行政の財政事情を加味すれば指定文化財を増やす事は至難の業だろう。多くの登録有形文化財は次の大規模修繕時に大きな選択肢を迫られることになるであろう。

多摩の登録有形文化財2012年現在

登録基準の原則は築50年を経ていることだが、50年前と現在では生活様式自体はあまり変わっていないが、建築材料は大きく変化した。木造家屋を例に見ると、50年以前では建物の多くのは土と漆喰で壁がつくられていたが、その後プラスターボードやモルタル、サイディングに変化していった。使う素材が変わると、自ずと施工技術も変わって行く。現場での手間のかかる左官や細かい大工仕事は減り、技術を持っている職人も減ってきている。
制度ができた平成8年頃は、まだ土壁の建物が街に存在していたと思うが、今はどうだろうか…。また、現在でも土壁の建物が建てられない訳ではないが99%以上の建て主は土壁を採用できないくらいハードルが高い。土壁は既に「再現することが容易でないもの」と言える。茅葺きの民家が市街地から無くなって久しいが、土壁の家屋もそろそろ姿を消そうとしている。高度経済成長期以降は新しい物をつくることに重きを置き、過去をリセットしてきたが、そろそろ建物のつくり方を見直すべきだろう。過去と未来を断絶させるのではなく、昔があって今があり、そして未来へと続いてほしい。街の古き良き建物を未来に繋げる存在として、登録有形文化財には今後も期待したい。

登録の意義

旧梅田診療所はレトロカメラマン伊藤龍也氏が中心となり現地での利活用から移築保存まで様々な方法で尽力されたが、2010年に梅田隆久さんが亡くなり、2011年の暮れに高齢者向けマンションへの建替えが決まった。最後の頼みである立川市も建物を引き受けてくれる事はできず、解体は免れない状況となったが、2012年の11月に市の文化財保護審議会委員の稲葉和也先生が再度現地の視察を行い、立川市歴史民俗資料館による緊急調査を行うことが決まった。調査は解体の直前に行われ、伊藤氏と歴史民俗資料館の小川始氏が写真を担当し、私が実測調査の世話役を担った。稲葉先生の口添えで歴史的建造物に明るい五人の建築士が(内田セツ子、大塚哲也、金田正夫、十川百合子、田村公一 敬称略順不同)が実測調査に参加してくれた。二日間と短期間の調査だったが、最低限必要な図面は実測できた。マンション事業を請け負った積水ハウスも、診療所の天井装飾のレプリカを製作し、計画中のホールでの利用を決めている。建物は再利用できなくても、新しくできる建物の中に洋館のデザインが踏襲されることは嬉しい話だ。
現在立川の駅前では第一デパート周辺の再開発が進行中だが、敷地には旧梅田診療所と同様に登録文化財になりうる素晴らしい近代建築があった。しかしながら登録になっていなかったため、建物の情報がなく、人知れず解体されてしまった。文化財に登録すると、その建物の文化的な価値が公に評価され、文化財として周知される。文化財的な価値の共有、これが登録の大きなメリットだと思う。
天井装飾や玄関の外壁のレリーフは解体時に積水ハウスの協力で取り外され、歴史民俗資料館に保管されている。医院の備品や建具、戦前の診察記録も資料館に収集され、整理が終わり次第、展示会が企画される予定だ。実測した図面も展示会までに報告書としてまとめたいと思っている。結果として建物は無くなってしまったが、資料として記録、保存される道が繋がった。旧梅田診療所の文化財的価値が共有できたからこそ、このような協力体制が得られた。やはり登録の意義は大きいと言えよう。

旧梅田診療所は解体の一報がメディアに載ったことから、壊されるという事が注目されたが、僕はあの場所に今まで存在していたことをもっと評価してほしいと思っている。建物の平均寿命が40年に満たないと言われる中、立川の中心市街地で80年以上も洋館を維持管理し続けた梅田家の労をねぎらいたい。お疲れさまでした。そして、ありがとう。登録プレートが長年頑張った建物への勲章のように見えたのは、僕だけではないだろう……。

東京23区内では「たてもの応援団」という歴史的な建物を専門家と市民が協力して残していくための組織がある。今回の旧梅田診療所の実測調査でも杉並と中野たてもの応援団のメンバーが参加してくれたので、二日間という短期間で記録を採る事ができた。地域の歴史的な建物は、地域で守って行くのがもっとも素直なところだと思われるので、多摩にもこのような仲間があれば心強いはずだ。本誌で地域に残る歴史的な建物を紹介し続け10年になるが、旧梅田診療所だけでなく、取材した建物の存続が危ぶまれているものもがいくつかある。今後も何らかのかたちで「応援」できればと思っている。一緒に応援していただける方がいたら一報頂けると幸いです。

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