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「耕心館・柱から垣間みる近世」 瑞穂町

  • 建物雑想記
  • 2017.01.15

今回の多摩のあゆみの取材では瑞穂町郷土資料館「けやき館」の北爪寛之氏に町内の歴史的建造物をご案内頂いた。ここでは平成13年に瑞穂町社会教育施設として整備された江戸時代末期に建てられた民家「耕心館」を紹介したい。町の施設になる前から、既にフランス料理店として改修されていたとのことで、昼食もここで頂くことになった。和館を改修したフレンチと言えば、国立のル・ヴァンド・ヴェールのような感じだろうか…。現地に着くと、軒の深い正門の奥に耕心館が佇んでいた。外観を見る限りは豪農の民家そのものだ。建物の中はどうなっているのだろうかと期待が膨らむ。
耕心館1
エントランスに入ると、そこは想像を超えた世界が広がっていた。白い床に2階へと繫がる劇的な階段は正に洋館のインテリアであった。この改修はフランス料理店時代のものとのことだが、ここまで改修するとは、凄いの一言に尽きる。民家として使われていた時代の復元図を見ると、もともとこの位置に階段はなく、入口の右側に小屋裏に上がる梯子のような階段が設けられていただけのようである。小屋裏は大正時代には床を張り養蚕の場として活用していた。3階に分けられていたことも痕跡からわかる。現在は2階部分の床は撤去され、3階だった部分が2階となっていた。
心耕館2
ゴージャスな階段の左側は飲食スペースとなっている。カーペットが敷かれ、上質なアンティーク家具が設えてあった。白い壁の上には民家の力強い梁が入り組んでいるが、二層分の天井高があるので、うるさくなく、落ち着いた空間となっている。全体的に洋風な空間に改修されているが、よく観察してみると「大黒柱」も確認できる。大黒柱は土間と座敷の境に建てられる太い柱で、構造材という意味合いだけでなく、家の永続などを象徴的に示す存在であった。大胆に改修しているので間取りも相当変えているような印象を受けたが、大黒柱を基準に昔の間取りと照らし合わせると、当初の間取りの位置に現在も柱が建っているのがわかる。
心耕館4
エントランスホールとギャラリー部分が土間で、大黒柱の奥が座敷となっていた。現在「洋室」と呼ばれている個室は奥座敷としてこの民家の最も格式の高い場所で、その南に10畳の座敷が襖で仕切られていた。この二間は長押のある座敷で接客の空間であったことが推測できる。12畳は差し鴨居があり、より日常的な間と判断できる。


心耕館6
柱の脚元を見ると板金が巻いてあるのが確認できるが、これは敷居を抜いた穴を隠すためのものと考えられる。昔の敷居を残すと、鴨居と敷居の高さが1.75m程となり土足で入るには低すぎるためである。民家を再生する時に必ず課題となるのが鴨居の低さである。敷居を下げると柱脚だけでなく、床と壁の取合い全てに不具合が生じることになる。わずか数cmのことで大変な作業となるが、その効果は大きい。耕心館の鴨居は改修後も十分な高さではないかもしれないが、違和感なく使える高さになっているのが素晴らしい。

心耕館3
窓側のテーブル席に座ると、縁側沿いに柱が何本も建っていることに気が付くだろう。新築であれば庭側にわざわざ視界を邪魔する位置に柱を建てることはしないが、このように柱が入るのには訳がある。下の図のように、柱と梁のフレームを桁で繋いで架構を組み立てる方法を「折置き組」と呼び、この構法では梁の下に柱が必要となる。一方、柱の上に桁を横に通して、桁に梁を架ける構法を「京呂組」と言い近世になって考案された構法である(現在は京呂組で建てることが一般的である)。この場合は桁で梁を受けるので、梁の下に必ずしも柱を必要としない。したがって、柱の有無は部屋の用途によって選択することができる。
心耕館5改めて耕心館の南縁側沿いの柱を見ると、梁の下に柱が入っているので「折置き組」で建てられていると判断できる。この柱の存在からも母屋が江戸時代の建物であることが読み取れるのである。北西の離れは大正時代の増築だが、柱の配置から京呂組になっていると予想できる。

一見全てが洋風にみえるインテリアだが、間取り自体は民家の時代とほとんど変わっていない。ゆっくりとお茶を飲みながら、柱を手がかりに近世に建てられた民家と対話してみてはいかがでしょうか。現在の住まいでは、木造であっても「柱」を見かけることは稀になってしまったが、柱が語ることは多い。耕心館の建物そのものが心を耕す糧となることでしょう。

【参考文献】
■耕心館 建物について/瑞穂町社会教育施設 耕心館
■民俗建築大辞典/日本民俗建築学会/柏書房