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「浅川町の遺産・旧浅川町役場」 八王子市

  • 建物雑想記
  • 2016.11.16

八王子は戦災に遭っているので、戦前の洋風建築はほとんど残っていない……。そんな話をよく耳にするが、今回紹介する旧浅川町役場も昭和20年8月の空襲で罹災し、戦後間もない昭和26年に建てられた建物である。戦後と言えども、人々の生活はようやく戦前の暮らしを取り戻しつつあった時期で、建築に関しても、それまでの建物と技術的には大差はない。しかしながら、建物の意匠には変化が見られ、モダンになっているのだ。
旧浅川町役場1
南多摩郡浅川町は昭和25年の国勢調査によると人口が7543人の町で、主な産業は林業であった。中心市街地を罹災し、モダンな役場が逸早く再建されたことは、正に復興のシンボルとして町民に受け入れられたのではないだろうか。木造二階建て、延べ床面積827㎡(現在の広さ)の建物で、一階に事務室と町長室や応接室の行政サービスを担う部所が入り、二階には大小の会議室と議長室等で構成される議会スペースがあった。基本的に総二階で、トイレや倉庫・休憩室等が平屋で附属していた。(現在は二階は使われていないが、一階に浅川地区社会福祉協議会と高尾交通安全協会が入居している)。旧浅川町役場の意匠的な印象をざっくりとまとめると、和風ではなく、木造ながらも木造らしくなくいと言える。何ともつかみ所のない言い回しだが、格好良いのだ。これが「モダン」であると言えば、納得いただけるのではないだろうか。


役場などの明治以降に誕生した公共建築の意匠は、政府の洋風化政策から、洋風でデザインされることが一般的で、構造は耐火性能の確保から煉瓦等の組積造で建てられていた。その後、関東大震災により組積造の耐震上の弱点が判明したことから、震災以降に計画された公共建築は耐震及び耐火性に優れた鉄筋コンクリート造(以後、RC造と表記)で建てられることになる。世の中の戦争色が濃くなると、昭和12年には鉄鋼工作物築造許可規制が制定され、RC造では建築することが難しくなる。耐火性能を都心ほど考慮しなくてもよい地方の建物は、再び木造で建てられるようになるが、本当はRC造で建てたかったという意識が意匠にも現れ、木造ながらも木造らしくないデザインを開花させることになるのだ。

戦後も資材が足りない状況が暫く続き、復興期の公共建築の多くは木造で建てられていた。特に旧浅川町は林業の町だったので、町内産業の活性化からも木造が選ばれたことが理解できる。旧浅川町役場はこのような時代の傑作と言える建物である。上の写真は旧浅川町役場のエントランス部分だが、地面から力強く立つ柱型は人造石研ぎ出し仕上げで、この部分だけを見ると、RC造と見間違う程重厚なデザインとなっている。建物の構造的な特徴として、大梁を受ける柱が二本抱き合せで組まれており、その部分が外壁から柱一本分出っ張る架構となっている。エントランスの柱型はこの抱き合せの柱をさらに強調している。

旧浅川町役場2エントランス以外の壁は板張り(南京下見板張)で、窓廻りのデザインに工夫が凝らしてある。窓は一間巾に引き違い窓を二段重ねている。窓上に欄間を乗せる方法は日本の伝統的な窓でもよく見られる構成だが、欄間は窓よりも高さを低くするという不文律があった。ここでは、窓と欄間が同じ大きさになっていて、今までの引き違い窓にはない斬新なデザインとなっている。上段の窓は室内の天井の高さまで開口部が設けられており、採光や換気の上でも有効な窓になっているのだ。また一階の役所の窓には上段と下段の間に庇があり、雨天時の通風にも配慮された設計と考えられる。庇は個々の窓を横一線で繋ぎ、外観上の重要なアクセントになっている。この窓の外側をさらに詳しく見てみると、上段の窓の上枠に換気用のスリット(パンチングメタル)が設置されていることに気が付く。この換気口によって、一階の天井と二階の床下の空間を換気しているのである。屋根の軒裏にも換気口が確認でき、小屋裏換気もしっかりと計画されていた。当時から躯体内部の換気が検討されていたことが読み取れ、木造建築としての完成度の高さが伺える。

窓の室内側にも特筆すべきことがある。構造の柱や梁、方杖は木造なので化粧材として見せることも可能であるが(木造校舎ではこの部分の架構を見せるケースが多い)、ここでは漆喰で覆い、RC造を意識した造形となっていた。架構を漆喰を塗ることは意匠面だけでなく、防火性能も期待していると思われ、意匠と性能を兼ね備えた造りとなっていた。
旧浅川町役場3
当時の木造公共建築の仕様を知る手がかりとして、常磐書房発行の「高等建築学/全26巻」がある。旧浅川町役場と同等規模の片廊下式の木造建築の指針としては、第20巻「建築計画 第八 学校・図書館」昭和12年発行が参考になる。旧浅川町役場との仕様を比較すると、構造(小屋組のトラス、抱き合せ柱、基礎)、換気(小屋裏、二階の床下、基礎廻りの通風の確保)等、基本的な考え方が当時の指針と合致する部分が多くあった。戦後の物と人手の足りない時期に、このような上質な建物を造れたのは、木を知り尽くした優れた人材と、役場建築に相応しい技術をまとめあげる見識が町にあったことが想像できる。どのような状況で町役場が新築されたのかは具体的には把握できていないが、小屋裏には棟札が残っており、当時の様子を感じ取る事ができた。棟札の表面には町長の名前と関わった職方の記載が、裏面には上棟年月(昭和26年3月)と施工業者名が墨書きされていた。取材時の棟札調査では八王子市の財務部管財課の職員と一緒に小屋裏に侵入した。今まで幾度も棟札の調査は行っているが、建物所有者が小屋裏まで一緒に登るケースは稀で、管財課の皆さんの建物への愛情を多いに感じた出来事であった。

浅川町が八王子市に合併したのは昭和34年だが、町村合併促進法が失効する昭和30年には合併に賛成しつつも見送っている。その理由として、合併前に町有財産(主に町有林)を用いて住民の福祉に貢献する諸施設を整えるべきとの落合町長の見解が八王子市市議会史(資料編Ⅱ)に示されている。町村合併促進法は昭和24年のシャウプ勧告(人口8000人未満の町村の合併を勧めた)を受けて昭和28年に施行されている。罹災した町役場が建てられたのが昭和26年なので、町役場の建築も将来の合併を見据えた町内財産の投資の一環だったと考えられる。実際、合併後も旧町役場は八王子市役所の浅川支所となり、地域住民の生活を支える施設として活用されたのである。

旧浅川町役場は昭和の大合併時に整えられた、旧浅川町の建築遺産と言える。今後も維持管理しつつ、大切に活用していただきたい建物である。