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「『百草画荘』茶室から見る画伯の宇宙」 日野市

  • 建物雑想記
  • 2015.05.16

百草画荘を初めて訪れたのは、2014年の5月、新緑の頃だった。小誌の読者からの推薦で、百草園の近くにある洋画家・小島善太郎のアトリエが記念館として公開されているとの情報を頂いたのだ。春の陽気に誘われて百草周遊のポタリングを楽しみに下見に向かったが……100mも進まないうちに自転車で来たことを後悔し、百草の丘陵地を肌で体感した。ふらふらになりながら百草八幡神社までたどり着くと、ここが峠であることを足が教えてくれた。そして「百草画荘」は多摩丘陵の尾根伝いの南斜面という絶好の立地に位置していた。建物の所有者・小島敦子さんと今回の推薦者の潮見さんが出迎えてくれた。小島善太郎記念館のお話を暫し聞き、是非取材に訪れたい旨をお伝えして記念館を後にした。
小島善太郎記念館01
取材日を調整しているうちに、百草が一番美しい時期にということになり、季節が一巡した2015年の3月、梅の開花に合わせて取材することとなった。今回は駅から歩いて向かったが、丘陵の尾根まで上るのは徒歩でもきつい。百草園の梅にエールをもらい、ようやく百草画荘へと辿りついた。あいにくの小雨であったが、それでも峠を超えた後の視界の広がる瞬間は清々しいものである。改めて丘陵地の尾根に住まう醍醐味を知ったような気がした。


洋画家・小島善太郎は1932年に世田谷区から環境の良い八王子郊外(南多摩郡加住村)に転居するが、その八王子のアトリエが都道の開発にかかり、日野市百草に住まいを移転するのは1971年のことである。百草の土地は以前から所有していた土地とのことで、ここに居を構える必然があったかもしれないが、開発に巻き込まれる可能性の少ない安住の地として、ここの場所性が優れていたからではないだろうか。70年代は百草でも日本信販住宅の宅地造成と分譲が行なわれた時期で、眼下の変わり行く風景を複雑な想いで観察していたであろうことが想像できる。
小島善太郎記念館02小島善太郎は武蔵野の農村風景を数多く描いたことで知られるが、建物の趣向もモダンなデザインよりも、民家的で素朴な意匠を好んだ。百草画荘は大林組住宅部設計課長横松幸助による設計で、以前住んでいた加住村の民家をイメージして建てられている。加住村では土間をアトリエ、床の張っている部分を住居としていたが、百草では傾斜地をうまく利用し、玄関を挟んで住居とアトリエを別棟に配置している。

東側のアトリエは三間×四間、12坪(24畳)の広間で、天井の高さは4mもある。さらに天井は大梁が井桁に交差し、民家の架構をイメージしたダイナミックな空間となっていた。加住村時代の民家を改造したアトリエの写真が展示してあったが、ここは正にその民家でのアトリエを再現した場所であることが判る。アトリエの壁には小島善太郎の作品の他、彼のコレクションの数々が所狭しと飾られており、色彩も賑やかで作品を観賞するには、品が多すぎるような気がしたが、茶室からの演出を体験した後は納得がいった。

小島画伯の亡くなった後、1994年に恒子善太郎夫人の意向を汲んでアトリエの南側に茶室が増築された。ここでアトリエと茶室という他に類を見ない間取りが完成したのである。アトリエへのアプローチは通常は玄関を入って、渡り廊下を経て部屋に入るが、庭の路地からにじり口を潜って入るルートもある。茶室に静坐し、アトリエと茶室の隔てる三枚引き襖をサラサラサラと引くと、アトリエがお茶室から見ると借景のように表れ、演劇の舞台を間近で見ているような不思議な感覚を体験できる。装飾を省いた茶室から、色彩豊かな小島善太郎の小宇宙を垣間みることができるのだ。このストイックな異次元体験はここでしか味わえないであろう。
小島善太郎記念館04
玄関を入って西側が住居部分となっている。こちらは民家と言うよりも山小屋風のイメージで、切妻屋根の大屋根が印象的である。南側の広縁に面して和室が二間あるが、個々の部屋は壁を挟んで独立しており、続き間にしないところに、並々ならぬだわりを感じる。それぞれを見てみると、まず玄関に近い八畳間(広間)は加住村の民家のイメージを踏襲し、通常の和室の鴨居+長押の構成ではなく、差し鴨居(鴨居の寸法が大きく梁の役割を担う横材)を用い、二階の構造が天井に露出している。本来の民家であれば、荒削りの構造材が露出となるが、ここでは鉋のかかった製材がスッキリと納まっており、民家風でありながらも、田舎臭さを排除した洗練された和室となている。
小島善太郎記念館03奥の八畳間(奥の間)は和室の伝統に乗っ取った数寄屋風の座敷と言える。線が細く軽快な印象で、手前の広間と奥の間がデザイン的な性格が異なることから、あえあて続き間としなかったことが想像できるが、なかなかここまで割り切れる人は少ないだろう。奥の間の特徴は床の間の横に備え付けられた書院にある。通常の書院は形骸化された空間で、床の間の一部と見なされることが多く、本来の機能を失っているが、ここの書院は地袋の中が堀炬燵となっており、天板を文机として実際に使うことができる。この書院と同じ形式の物を、設計を担当した横松氏は大磯の旧吉田茂邸の二階にも設えたとのことだか、残念ながら旧吉田邸は平成21年に焼失してしまい、現存するのはこの百草画荘だけとなっている。書院が文机として機能するのは当たり前のようでありながら、このような例を他に見たことがない。質実剛健な民家を好んだ小島画伯の家づくりのエッセンスをここからも読み取ることができるような気がした。

【参考】
■『百草画荘』小島善太郎と記念館開館によせて 発行 小島敦子 平成25年(2013)
■百草画荘は日野市に寄贈され、2013年より小島善太郎記念館として、土日限定で公開されています。