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「モダンな古民家の史跡・武相荘」 町田市

  • 建物雑想記
  • 2013.04.01

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このコラムでは前掲の「洋館への誘い」の伊藤龍也氏と共に、多摩に現存する洋風建築を取材してきたが、紹介した建物はいずれも、縦長の窓やドイツ下見板張りの壁、ドア等、それまでの和風建築にはない洋風の意匠があった。洋館の主は、西洋の建物にあこがれ、地元の大工と頑張って洋風な建物を作り上げてきたが、意匠は洋風なものの、間取りからは昔ながらの和風な生活を過ごしていたことが想像できる。武相荘をそのような視点で見てみると窓は横長の引違い窓、壁は漆喰塗、間仕切りは引戸、さらに屋根は茅葺きで、どう見ても純粋な日本の古民家なのであるが、白洲次郎と正子のライフスタイルに着目すると、ここに洋風要素が溢れんばかりにあったのだ。


2012年の年の瀬、武相荘を訪ねた。冬晴れの気持ちのいい日で、漆喰の白い壁に写された冬の樹々のシルエットをレトロカメラマン伊藤氏が追いかけるようにシャッターを切っていた。僕も武相荘の牧山館長から間取り図を採る許可を頂いたので、コンベックス(巻尺)を片手に古民家との対話に勤しんでいた。実際に手を動かしながら間取りを記録していくと、ただ見ている時には気づかなかった様々な発見があり、取材の予定時間があっという間に過ぎてしまった。


武相荘は町田市の史跡に指定されている。通常、史跡等に指定された民家は建築当初の形に復元されている場合が多く、現在の生活から切り離された昔の空間が再現されているが、武相荘は白洲正子の亡くなった平成10年の時をそのまま展示してある。史跡にも関わらず、現在の生活との接点が大きいところが魅力だ。白洲次郎と正子については、皆さんもご存知だと思うので割愛したい。ここは素直に建物のことを紹介し、白洲正子の著書の深追いは禁物と肝に銘じ、町田市の史跡に指定された時の報告書(白洲次郎・正子旧宅調査報告書 平成14年 町田市教育委員会)から資料を読み始めた。しかしながら報告書の中に著書の引用が出くると、ついつい本に手が伸びてしまい……なかなか原稿が進まないのだ。早くから原稿の準備を進めたにもかかわらず、結局いつものようにギリギリの入稿となってしまった。文献調査は白洲正子の著書を読む、楽しい一時となった。


前置きが長くなったが、本題の建物の建築的な特徴を紹介をしたい。報告書によるとこの旧白洲邸主屋は幕末から明治初期に建てられた、多摩地区の典型的な養蚕農家とされている。主屋の特徴を専門用語で記述すると「木造平屋、寄棟茅葺、桁行八間梁間五間、食違い四間取形式」となる。前半はおおよその見当がつくと思うが、後半は難解なので、少し補足したい。「桁行八間梁間五間」は建物の規模を表す言葉で、「桁行八間」とは長手方向に八間(一間は約1.82㍍)、「梁間五間」とは短手方向に五間の長方形であることを表している。「食違い四間取形式」これは土間の横に四つの部屋がある形式を表すが、四つの部屋が「田」の字のように奇麗に並んでおらず、ずれている間取りのことを表している。間取り図を見ると、「書斎」と「10畳」の境と、「15畳」とその上の部屋の境目がずれているのがわかるだろう。
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白洲夫妻がこの民家に移り住んだのは昭和17年(1942)で、当時は建物が相当痛んでおり、茅の葺き直し等大掛かりな修繕を行ったが、大きな改造は行っていない。三和土の土間だった部分をタイル張りに改修した他、北側の水廻りと西側の倉庫の増築を行った程度である。間取り図を見ると、土間の真ん中に柱が立っているのがわかると思うが、実はこの柱をよく観察すると、天井部分で柱が切れており、上部の構造につながっていないのである。町田市の報告書には、この柱についての言及がないので、詳しいことは定かではないが、この柱と間仕切り(格子戸)は白洲夫妻が住んでから設えたものではないだろうか。間仕切りとして入れられた千本格子戸も、当初からこの家にあった建具にしては繊細な作りに思えるのだ。この格子引戸があることによって、ソファースペースの落ち着きが確保できるとともに、玄関から入った時の土間の奥行き感を与えている。また、この格子引戸が程よく視界を遮ることで、15畳と土間のソファーへの来客時のサービス動線がうまく確保されるのだ。実によく計算された、間仕切りの配置である。

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武相荘の洋風要素についても少し掘り下げてみよう。伝統的な日本の古民家の外観からは想像もできない洋風でモダンな居間が、玄関を入ると出迎えてくれるのだ。しかしながら、土間にタイルを張っただけでは洋風と言うには物足りないだろう。家具や絵画等の設えが加わり、古民家の土間が全体として洋風な場所となっているのだ。ソファーセットとランプとの絶妙な関係、漆喰壁の中の絵画の飾り方等、欧米の生活を熟知した白洲夫妻でなければレイアウトできない配置だ。タイル張りの部分は現在では、靴を脱いで上がる場所になっているが、当初は土足のまま入ったと予測できる。通常民家における土間は、板の間や畳の間等の靴を脱いで上がる空間よりも下の空間という位置づけになるので、土間は作業場にはなっても、居間等のくつろぎの間になることは珍しい。欧米での土足の文化の洗礼によって、このような思い切った土間の活用ができたと思われる。武相荘では意匠の模倣ではなく、生活の中で身に付いたスタイルとして、洋風な空間が醸し出されていると言えるだろう。

武相荘は戦前に改修された「古民家再生」の先駆的な事例だが、現在でもその魅力は衰えていない。それどころか、今後も快適に住める潜在力さえ感じる民家だ。「和」、「洋」それぞれの伝統を踏まえた上で、自らが必要と認めた物を適所に配置し、さらにタイル土間の床暖房のように快適性も追求していた。住居のあるべき一つの理想がここにあったと思うのだ。武相荘から学ぶべきことは多い。

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